Global Wind (グローバル・ウインド)
日本文化の5つの側面

中央支部・国際部 宮本 邦夫

 年に2~3回海外に行き、国内では週一度外国人にボランティアで日本語を教えているので、外国人に接する機会が多い。外国人と接していると、いろいろな質問を受ける。その中でも、日本の文化について訊かれることが少なくない。この問いにどう答えるのか最初は戸惑いを覚えたが、最近では、多様な日本文化について、以下に掲げる5つの側面から答えるようにしている。何かの参考にしていただければ幸甚である。
1.「神道・仏教・儒教・道教の”一道・三教”の混合文化」
 日本文化について、まず指摘しなければならないのは、宗教的側面である。文化は、宗教の影響をきわめて強く受けるからである。日本の宗教は、神道と仏教が主流であり、その影響が文化に色濃く出ているのであるが、中国から入ってきた儒教、道教の影響も決して無視できない。とにかく、日本文化は、宗教的には「一道・三教」の混合文化なのである。そこで、次に神道、仏教、儒教、道教について簡単に見てみよう。
(1) 神道
 神道は、日本固有の宗教である。すなわち、山、岩、森などの自然を崇拝するアニミズムに端を発した多神教である。何しろ「八百万・千万の神」と言われる無数の神がいる、世界的には稀有な宗教である。神道は、農耕民族的特徴が顕著であり、他の宗教とは異なって教義というものがない。稲を蓄える米倉が原型と考えられる神社で、二礼二拍の作法で、ひたすら神に願い事をするだけである。また、神道は、不浄、穢れを嫌い、清浄心、清明心を重んじるのが大きな特徴である。なお、仏教が伝来してからは、その影響を受け神仏習合の時代が長く続いたが、明治維新で国家神道となり仏教から切り離された。
(2) 仏教
 日本国民のほとんどが仏教徒である。仏教は、インドで生まれた世界宗教であり、中国、韓国を経て6世紀に日本に伝来した。伝来当初は、仏教受け入れ派と反対派の争いがあったが、定着していった。仏教は、神道とは異なり教義がある。すなわち、仏教の教えを説いた経典が約6,000巻もある。日本の仏教の特徴は、宗派が多いことである。戦前は13宗56派と言われたが、現在では、もっと多くの宗派があるはずである。また、前述のように、神仏習合で神道との関係が色濃い。なお、江戸時代には檀家制度により、寺院は生活に密着した存在であった。
(3) 儒教
 儒教は、孔子の教えで始まった中国固有の思想である。儒教が宗教であるか否かは議論のあるところだが、一般的には、支配者階級の実践道徳という受け取り方が強い。儒教の教え、教義は「四書(論語、孟子、大学、中庸)五経(詩経、書経、易経、礼記、春秋)」で知ることができる。その説くところの要点は、「五常(仁・義・礼・知・信)五倫(父子親・君臣義・夫婦別・長幼序・朋友信)」であり、為政者のための規範を明確に示している。儒教は、仏教と同じ6世紀半ばに日本に伝来し、その影響は聖徳太子の十七条の憲法にも見て取れる。特に儒教が重んじられたのは、徳川時代の朱子学である。
(4) 道教
 道教も、儒教と同様、中国独自の思想であり、宗教である。道教を思想(あるいは哲学)と見る場合には「老荘思想」と言われる。「老荘思想」というのは、開祖の老子と荘子の思想、教えのことである。その思想は、きわめて端的に言えば、「無為自然」に徹するということである。この「老荘思想」を教義として宗教化したものを「道教」と呼ぶことが多い。道教も、仏教、儒教と同じく6世紀半ばに日本に伝来した。とは言え、仏教や儒教のような広がりは見せなかった。だが、歴代天皇の中には、道教に関心を持たれた天皇もおられ、天皇家との結びつきが強い。換言すれば、神道との関係が強いということである。
2.曖昧性の文化
 外国人から寄せられる日本人観の1つに「日本人は、物事を明確にせず曖昧である」というのがある。そう言われてみると、確かに使用する日本語自体も曖昧語が多いし、自分の意思に基づく明確な言動をとらない。物事を決めるときも、白黒をはっきりさせずに灰色、玉虫色の決着をつけることがきわめて多い。このようなことから、日本文化の一側面として「曖昧性の文化」を挙げることができるわけである。
 「曖昧性の文化」は、日本社会が「人間関係中心の社会」であるからだと言われる。すなわち、欧米のキリスト教圏や中近東のイスラム教圏の人たちのように、宗教が日常生活に強く影響することがなく、日本では神道にしても仏教にしても宗教の日常生活への影響が小さく、世間体つまり人間関係を重視する社会であるからである。このため、つねに「他人の眼」を気にして自分の言動を考える性向、他人を傷つけたくないという習性が身にしみ込んでいるので、無意識に曖昧な言動をとっているのである。
3.察しの文化
 日本文化は「察しの文化」であるということもよく耳にする。「察しの文化」というのは、言葉よりも「以心伝心」を重視する文化のことである。つまり、自分の意思、考えを言葉で表さずに、相手に推し量ることを欲するという文化である。なにしろ、日本では、「親しくなればなるほど言葉はいらない」というのが常識である。「いちいち言わないと分からない」というのでは、友だち、親友とは言えないのである。察し合うことができて、初めて真の友人になるのである。
 このような「察しの文化」が醸成された最大の理由は、日本社会が、「集団主義・同質社会」だからである。集団主義は、換言すれば「身内主義」であり排他主義である。また、同質社会は、同じ考えを持ち、同じ行動をとる社会である。こうした社会では、言葉に拠らない”顔によるコミュニケーション”が可能となる。しかし、最近、日本は、個人主義・異質社会になりつつあり、今後は”言語的コミュニケーション”の重要性が増してくることは確実である。
4.過剰性の文化
 ある中国人から「日本では、駅で”電車が来るので注意しろ”とか”ドアが閉まるから気をつけろ”とか、しつこく放送するが、なぜなのか?」と質問を受けた。私は、「顧客へのサービスの一環である」と答えたが、よくよく考えてみると、これは、顧客にとってはお節介であり、過剰サービスであることに気づく。鉄道会社や百貨店などでは、度を越えた必要以上のサービスを行う光景が見られる。また、食堂では、お茶、水は無料であり、買物には「オマケ」がつくことが多い。このような状況を見て、日本は「過剰性の文化」であると指摘する向きがある。
 「過剰性の文化」も、日本社会が「人間関係中心の社会」、「集団主義・同質社会」であることに基因している。つまり、より良い人間関係を維持するために、あるいは信頼関係を強化するために、より細かい心遣い、もてなしをすることが日本では、常態となっているのである。だが、いま評判の「お・も・て・な・し」も、見方によっては、過剰サービスという受け取り方もあるかもしれない。
5.恥の文化
 日本の文化は「恥の文化」であるというのは、米国の文化人類学者、R.ベネディクトの『菊と刀』(1946年)で指摘されたものである。彼女は、日本に来たことはないが、第二次大戦が始まって収容された日系人のキャンプを訪ねて日本人の精神構造を分析した。その分析結果の報告書が『菊と刀』である。この報告書は、対日本戦には役立たなかったが、マッカーサーの日本統治には、役立ったと言われている。
 本書の中で、彼女は、西欧がキリスト教に基づく「罪の文化」であるのに対して、日本人は「恥」を行動の規範として捉え、言動をとる「恥の文化」であると指摘した。私は、グアム島で発見された旧日本兵・横井庄一さんが、「恥ずかしながら・・・」とマスコミに登場したとき、この「恥の文化」を強く意識したことを記憶している。とにかく、われわれ日本人は、前述のように、「他人の眼」「世間体」を気にして、恥ずかしい言動を取らないよう細心の注意を払っていることは確かである。
 ちなみに、中国は「面子の文化」、韓国は「恨の文化」と言われているので、これらの国と接する際は、それぞれの文化を意識するとよいだろう。
宮本 邦夫(みやもと くにお)
協同組合エム・ビー・シー総合研究所代表理事、日本経営管理教育協会会長。国内外の官公庁、民間企業のコンサルティング研修を中心に活動している。『中小企業診断士になる法』など、著書・論文多数。