Global Wind (グローバル・ウインド)
ニューヨーク・マンハッタン今昔
中央支会国際部 近藤 徹
1.はじめに
この夏のはじめにマンハッタンを訪れた。5番街55丁目のペニンスラ・ホテルに居を定め、5番街の雑踏を見つめながら10日間を過ごした。この季節、マンハッタンの気候はとても心地がよい。気温は30度前後まで上がるが、湿度は30%から40%くらいであり、梅雨が明けきらぬ東京からやってきた身には別天地である。ちょうど20年前になる1990年、現地に勤務しておりマンハッタンに暮らしていた。当時との比較もまじえ、マンハッタンの現在をお伝えしたい。
2.ミッドタウン
驚いたのは観光客の多さである。マンハッタンは北緯40°44'に位置し、日も長く夜9時過ぎまでは明るい。朝から深夜に至るまで5番街は観光客でごった返していた。20年前当時もその後も見たことのない人の多さだった。人の多さだけならば渋谷だって、バンコクだって人は多い。ポイントは観光客であるか否かである。米国内、そして世界の各地からとおぼしき観光客は、人種の上では白人、ヒスパニックが大多数で、黒人、アジア人がそれに続く。観光客の多さでは、リーマンショック以前のロンドンのにぎわいに近いと感じた。街ゆく人々の明るい顔、顔、顔である。
観光客イコール消費である。米国ではGDPの構成比の70%近くを消費が占めるから、マンハッタンのような大商業地域では観光客が重要な意味を持つ。高級宝飾店、ティファニーの店員に尋ねたら、客足は完全に二年前の水準に戻ったとの答えだった。折しもティファニーの第一四半期(2~4月期)の世界売上高が発表されていた。前年同期比で米州が22%増、ヨーロッパが25%増、日本を除くアジア・太平洋地域は50%増だったが、日本のみは2%減であった。
ブランド品、アパレルのお店はどこもお客でいっぱいだったが、道行く女性の紙バッグの数ではH&M、ZARA、そしてGAPの順であった。ユニクロ(ファーストリテイリング)の5番街進出が報道されている。通りに何ヵ所かある改装中の店舗。どこも「近々オープン!」といった看板のみでどこが出てくるのかわからず、NYっ子の期待をあおっている。現地の常套手段である。一方、高島屋ニューヨーク店がひっそりと店を閉じた。20年前にもあったから、長い歴史があったと思われる。間口が狭く、百貨店としては小さな店舗である。60%引きの閉店セールではほとんど商品も残っていなかった。20年前は、三菱地所がロックフェラーセンターを買収して話題になっていたころである。高島屋ニューヨーク店は売却益が出たと後から聞いた。
小売でもうひとつ、34丁目にあるメーシーズ百貨店を訪れた。ここも人、人、人の波。26ヶ月連続売上減の本邦百貨店関係者が見たら腰を抜かしそうな客の入りであった。このお店は大衆的な品ぞろえであることと高級店がひしめく5番街、マジソン街からは離れて、ロウワーマンハッタンに近いことからお客の人種はより多様である。黒人、ヒスパニックのお客が多かった。品ぞろえもそれを反映して日本では見られない色使いが見られる。店内のトイレの前のベンチには中年男性の二人連れがぐったりしていた。どこでも見られる光景だが、持たされている紙バッグは10個ほどあって、精算前のハンガー付きのドレスも何着か持っていた。
マンハッタン5番街 タイムズスクエア前
グロセリー店頭 メーシーズとエンパイアステートビル
3.ロウワーマンハッタン
いわゆるダウンタウンであり、アベニュー、ストリートなどの道が何丁目何番地の碁盤目になっていないマンハッタン島の突端部であり、ニューヨーク発祥の地でもある。
南端のバッテリーパークからは自由の女神のあるエリス島に行く観光フェリーが出ている。大勢の観光客にまじってチケット売り場に並んでみた。ここで30分あまり。チケットを手にして乗船場からの人の列に加わろうとしたら、その列は公園の入口近くまでとぐろを巻いていた。これでは何時間待たされるかわからないので自由の女神はまたにした。
グランドゼロまではごく近い。マンハッタン島を縦断するブロードウェイからそれが見えた時、心が震えた。ぽっかり空いた空間は次なるモニュメントの工事現場になっており、献花などもなく暗い雰囲気はない。ここでも多くの観光客がカメラを向けていた。驚いたのは周辺の商店やビルが昔のままに残っていたこと。ワールドトレードセンターのビルだけがまさしく忽然と消えた形であった。多くの知人を亡くしているので手を合わせた。
グランドゼロからニューヨーク最古の教会であるトリニティー教会まで戻り、ブロードウェイをはさんだ反対側の路地がウォールストリートである。そこにあるニューヨーク証券取引所(NYSE)も観光スポットである。ここも観光客や報道のカメラクルーでごった返していたのだが、取引所の中への入場は禁止されていた。正面玄関前にはニューヨーク市警察(NYPD)の装甲車のようなバンが止まっていて、機関銃を持った警官が警備に当っているありさまだった。けっして侵されたくはないインフラということなのだろう。昔、取引所の中の売店で買い求めた土産品は貴重なものとなっているかも知れない。
イーストリバーに沿ってシーポート近辺の古い街並みを北上する。ブルックリンブリッジ、マンハッタンブリッジを右手に見ながら歩を進めるとチャイナタウンである。1990年頃は米国の景気がとても悪くて、マンハッタン中で犯罪が絶え間なかった。なかでもチャイナタウンは危険地域の代名詞であり、車で特定のお店に乗り付けるならばいざ知らず、けっして一人では歩いてはいけないと言われた地域であった。平日の昼間、当然の如く中国人であふれていたが、危険な雰囲気はまるでなかった。こちらがほとんど同じ人種であるせいかも知れないが。
チャイナタウンに隣接してリトルイタリーがある。と言ってもほとんど一本のストリートだけがイタリー街であり、イタリアンレストランが並んでいるけれど、周辺は昔以上にチャイナ勢力に侵食されている気がした。ここはイタリア人をはじめ、白人の観光客が多い。それまで中国人ばかりを目にしていたので違う国のようだ。いや、チャイナタウンが違う国か?ゴッドファーザーの撮影で使われたような古いアパート郡が今でも残っている。
遠く自由の女神をバックに チャイナタウン
リトルイタリー NY市立大学近くの屋外広告
4.アッパーウエスト
116丁目駅で地下鉄を降りて、ハドソンリバー沿いのリバーサイドパーク、コロンビア大学、聖ジョン・ディバイン大聖堂周辺を散歩した。ハーレムに近いので黒人比率が高い地域だが、高級アパートの多い地域でもある。ヤンキース時代の松井選手もこのあたりに住んでいたということである。
リバーサイドパークはその名の通り、ハドソンリバーに沿った長い公園。20年前はセントラルパークやバッテリーパークでさえジョガーが襲われたり、殺人事件があったりして、公園は危険だから入ってはいけないというのが不文律であった。今はとてものんびりとしていて肌を焼く男女が寝そべっている。乳母車を押す母親やナニーが多いなと思ったら、すべり台やブランコが設置された小さなキッズパークがあった。
コロンビア大学は言わずと知れた全米有数の名門大学である。周囲はアパートに囲まれているけれども中心には豪壮な図書館、その前のアルママータ像の前には芝生が広がっていてとても美しい。ダウンタウンにあるニューヨーク市立大はキャンパスらしい敷地もなく、東京都心の大学と変わらないが、ここは別格である。東洋人とおぼしき学生も多数いたがほとんどが中国系と思われ、たまに韓国人。日本人らしき学生には遭遇しなかった。後で聞いたら、コロンビアには全学年で5人しか日本からの留学生がいないのだという。企業からの派遣が減ったこと、今の学生に留学熱があまりないことが理由というのだが、さびしい限りである。別の用で投資会社に勤める韓国系米国人の女性と話す機会があった。韓国では97年の通貨危機以降、英語教育熱が盛んで今の10代の若者はほとんど英語を話すという。香港、台湾は英語教育にも留学にも従前から熱心で競争も熾烈である。香港から米国への留学の枠は中国のメインランドと同枠のため、香港の学生は上海、北京の学生としのぎを削ることになる。そのため、香港、台湾、韓国の学生の間では自国の激烈な競争を避けて、日本に留学し、空いている日本の大学からの留学枠を使って米国に留学するのが流行っているというのだ。本当ならばちょっとさびしい。
聖ジョン・ディバイン大聖堂は、1892年に建築が始まって以来、いまだ未完成というニューヨーク最大の大聖堂である。何しろ大きくて荘厳、ステンドグラスの大きさ、数、美しさもすばらしい。案の定、スペインからの団体さんのバスが二台、聖堂前に止まっていた。団体さんをやり過ごしてからゆっくりと見ていると、先ほどまでスペイン語で案内をしていた案内係のおじいさんが話しかけてきた。ずいぶん昔にも来ましたよと話すと、実は2001年の12月のある夜に漏電による火災が発生、聖堂中に煙が充満してススが付着、その修復が最近終わったばかりとのことだった。2001年というのはいろいろなことがあった年なのだと改めて思った。カソリックの教会を尋ねているのはほとんどがスペイン人かヒスパニックである。ちなみに美術館、博物館はフランス人のお客が多い。
帰路はブロードウェイをバスで下った。20年前の同じ路線バスには黒人しか乗っていなかった。今は、黒人系とそれ以外の人種は半々である。
コロンビア大学キャンパス 聖ジョン・ディバイン大聖堂
おわりに
20年前の1990年当事にくらべると、街が格段にきれいになり、安全になったことが感じられた。街を行くタクシーは新車ばかりだし、ホテル前にはぴかぴかのGMのSUV、キャデラック・エスカレードがリムジン代わりに並んでいる。街は明るい顔の観光客でごった返して、街じゅうにニューヨーク市警察(NYPD)が警備に立っている。
1990年当時のニューヨーク株式市場ダウ平均株価は2,000ドル台前半に低迷し、2,500ドルが大きな壁と言われていた。一方、当時の日経平均株価は最高値の38,000円台からスリップダウンしたあたりだった。それからの20年、米国の平均株価は約4倍になり、日本のそれは4分の1になっている。
本文の記述においても、筆者が日本についてネガティブに捉えていると思われた方がおられるかも知れない。しかし、筆者は日本についてさほどネガティブに思ってはいない。たしかにマンハッタンはきれいになって、安全になって観光客を呼び込み、景気も回復している。中国、インドは景気拡大を続け、韓国の大企業は本邦企業を凌駕して成長している。それ自体は事実である。
景気回復が遅れているとはいえ、日本の国民、その経済圏が消えてなくなったわけではない。二年前の世界経済危機当時、グリンスパン前FRB議長は、百年に一度の経済危機という表現をした。日本の過去百年余りを振り返ると、幕藩体制から明治維新があり、第二次世界大戦をも越えてきた。現在の円という通貨制度でさえ二度も大きく変わっている。日本は百年に一度どころではなく何度も大きな変化を経験し、その度に再生を繰り返している。そんなわけで筆者は日本についてそれほどネガティブには考えていないのである。
ヤンキースにいた松井選手はロサンジェルス・エンジェルスに行ってしまったが、今年のニューヨーク・メッツでは二人の好投手、高橋投手と五十嵐投手が話題の的である。二人の日本での活躍の様子を聞かれるたび、筆者はちょっとよい気分になった。