グローバル・ウインド

中央支部・国際部 望月 優樹

0. はじめに

誠に僭越ながら、2018年6月「香港のとある日曜の風景から見えた『フィリピン』について」というタイトルでグローバルウインドを書かせていただきました。以来、香港をベースとする駐在会社社員であり、東南アジアの顧客を担当する営業マンとして、公私ともに状況は劇的に変わりました。現在駐在生活は六年目となろうとしていますが、特に2019年から今2020年3月現在に至るまで、特に本当に大変でした。どこかが変わったかというと、まずは香港民主化運動、そして今でも問題となっている新型コロナウイルスによる公私ともにおける大変化です。

今回、幸運にもグローバルウインドを再び書かせて頂くこととなりました。そこで、お読みいただく皆様の、何かのきっかけであったり、関心の一助となるものをと考えました。2020年(令和3年)3月現在、海外駐在員として、今だ当該劇的変化中の、そのまさに渦中にいて稀有な経験を経験させていただいており、その経験を共有させて頂ければと思いました。またその経験から見えてくる前回の「香港のとある日曜の風景から見えた『フィリピン』について」の続編として筆者の私見についても述べさせて頂ければと思いました。最後までお読み頂けましたら、幸いです。

1.香港民主化運動

1-1. どこか他人事な出来事
2019年2月香港政府は、逃亡犯条例の改正案提出を発表いたしました。これは、特別行政区である香港における容疑者身柄引き渡しの手続きを簡略化し、中国大陸、マカオ、台湾(中華民国)にも刑事事件の容疑者を引き渡しができるようにするものでありました。しかしながら、これは中国大陸・中華人民共和国当局からの特別行政区である香港への干渉取り締まり対象になる可能性があり、香港特別行政区の自治を保証する「一国二制度」が揺らぐのではないかという恐れから、香港市民による大反発を受けました。

結果、香港においては、市民によるデモ自体は珍しいものではなかったですが、2019年6月9日(日)には、とうとう主催者発表で参加者「100万人」以上にもなる大規模なデモが行われました。その後、香港政府は「改正案にはいかなる変更も加えないし、スケジュール通り審議する」と発表しました。これに香港市民は猛反発。6月12日には一部の市民が立法会(日本でいうところの国会)の審議を阻止すべく、一部立法会周辺の主要幹線道路を占拠しよとしたため、警察は初めて催涙弾やゴム弾でのデモ隊鎮圧を試み、とうとう香港市民への負傷者が発生しました。しかしながら、香港特別区行政長官のラム・キャリー氏は「息子がわがままに騒ぎを起こしているのを母が見過ごすことはできない」としてデモを逆に批判を行いました。

一部報道においては、6月9日から始まる香港市民による抗議行為と行政長官による発言によるさらなる抗議活動といった一連の事象をもって、デモが本格化したといわれておりますが、広東語で情報を見聞きできない香港における「外国人」としての私にとっても同意見で、広東語以外の媒体でもこの一連の事象が取り上げられ、否が応うにも注目するようになりました。とはいえ、当初は我々のような香港における駐在会社員にとって、公私生活ともにさほど影響があったわけでもなく、失礼を承知でありのままにいうと、どこか他人事で騒がしくなってきたな、とという程度でございました。まだ、引き続き感覚としては他人事だったのでした。

1-2. 不便と恐怖
その後、初めて恐怖を感じる出来事がついに起こりました。それは、6月12日(水)の夕刻のことでした。私のオフィスは香港のセントラルという香港の中心である香港島に位置する経済とりわけ金融の中心地「セントラル」という場所(日本でいうところの大手町、丸の内の金融街でしょうか)に位置するのですが、そのセントラルの近くには政府の官公庁舎、日本でいうところの国会・各省庁の建物も位置しております。

夕刻頃だったでしょうか、私のオフィスはビルの20階ほどの高さに位置しているのですが、外から人々の大きな叫び声というか掛け声が窓を閉め切ったオフィスの中にまで聞こえてきたのです。すると、上司から「立法会前に人々が集結をしていて、大きな騒ぎになっている。一部警察が催涙弾を使用したりしており、デモ行為や取り締まりなどが過激化する恐れもあり、また地下鉄など公共交通機関もすぐストップしてしまうかもしれないので、すぐに帰宅するように、明日も出社できない又は危険を感じる場合は出社しなくてもよい」と、各社員に通知を出し始めました。私は、その時まだまだ抱えている仕事もあり、「帰宅は強制ですか」と上司に詰め寄ったりして、自身に起きていることを把握できておらず身の危険を全く感じていなかったのですが、最後ににはしぶしぶ納得したふりをして、ずいぶん迷惑な話だなと不満たらたらで、帰宅の途に就くことになりました。

会社オフィスを出てみると、以下の光景に出くわしました。迷惑な話だと、まだまだ他人事としか思っていなかった、香港における「外国人」である私は、このときはじめて恐怖といか身の恐怖というか、もはや他人事ではない当事者意識を持つことになったのです。
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* 筆者撮影

目の前にはヘルメットをかぶり折り畳み傘を持ち、マスクをした多くの香港市民と思われるデモ隊の人々で香港の主要道路が埋め尽くされておりました。その道路の脇には多くのメディア・プレスの方々もおりました。多くの方は広東語で何かを叫んだり合唱していたりしておりましたが、一方で中には道路脇にいるメディア・プレスに向かって英語で香港の現状やこの抗議活動における自紙の主張を語っている若者も大勢おりました。

私は少し恐怖をいただきながらも、その時に会社の同僚も一緒におり、また最悪なことにセントラルの地下鉄の駅はデモ隊による影響で封鎖されており、もう一つの隣の駅まで歩いて向かわねばならないということになってしまい、どうせならということで、少し好奇心もあったことから、デモ隊で埋め尽くされた場所まで実際に見に行ってみることにしました。そして、周りが見渡せる陸橋まで足を運んだのです(その時に筆者が撮影した写真が上のものになります)。その時にまず感じたのは、怒りに満ち溢れるデモ隊の人々の表情や声による恐怖心でしたが、それ以上におそらく催涙弾の残り香があったのでしょう、少し鼻にツーンとくる匂いでした。思わず、持っていたハンカチで目と鼻を押さえました。おそらく人生で身に迫る恐怖というものを感じたのはこれが初めてだったかもしれません。初めて恐怖というものを感じましたし、香港における「外国人」である私にさえ、もはや関係のないことではない状態になったのでした。

1-3. 他人事ではなくなった
とはいえ、その後は身の恐怖を感じることはあまりございませんでした。というのも、近づかなければよいという感じで、その後一度もデモ隊へ近づくことがなかったからでした。そういう意味では、よほど先の出来事によって感じた恐怖が大きかったということかもしれません。ただ、その後香港での生活は困ったものになりました。先の事件の翌朝、出社をしようと思うと、一部の暴徒による地下鉄破壊(デモ隊によると、地下鉄公社は政府の公社であるため、抗議活動の攻撃対象になるのは致し方ない、、、とのこと)により、一部路線において朝から地下鉄が動いていなかったのです、ですので、皆がバスやタクシーに朝から大行列をなして、駅周辺は大混雑。結局、その日は午後2時頃にしか出社できませんでした。この状態はしばらく続き、会社では会社の出社時間は朝何時に出社してもよいという雰囲気になり、また帰りも先の事件が発生して一か月程は午後7時には地下鉄が停止してしまうため(その後も11月ごろまでは午後9時までと、通常に戻るまで半年ほどかかりました)、午後4時過ぎには帰るようにと、私の場合は顧客は東南アジアの顧客であり仕事量が減るわけでもなく、日々抱えている仕事が多かったため、毎日のように4時をすぎると「何時に帰れるのと毎日毎日帰宅を催促させられ、困ったものでした。というか、本当に不便を感じました。それでも、香港市民は自由のための今戦っているのだからと半ば強制的に理解をしようと、また同情心とで、自分を納得させるべく気持ちを落ち着かせるようにしていたという感じでした。ただ、仕事が不便になったとそれだけが不満で、私の住まいが居住区でオフィス街から離れていたこともあり、私生活への影響はまだ限定的でした。

ただ、7月になると、デモ隊が香港立法会を一時占拠し、警官隊がそれを強制排除を行ったり、白い服の集団がデモ参加者の特徴である黒い服の人々を襲撃して木の棒で殴りつけるな暴行行為(45人が負傷)があったりと、現地テレビでも大体的にとりあげられると、休日には家族からネイビーのTシャツでも、デモ隊の象徴でもある黒っぽい服は避けるようにといわれたり、一部私生活にも影響を感じるようになりました。

私は、香港に駐在し、出張をしながら東南アジア各国をまわり営業を行っております。ですので、大体月の半分は少なくとも出張をして、顧客に会って営業を行っております。7月に入りデモが過激化すると一つの営業トークが出来上がりました。というのも営業中ほぼ100%の顧客が香港のデモ状況について尋ねてくるのです。また、特にフィリピンは香港へ近い(フライト時間は2時間弱、実際は1時間半程度)こともり、また香港は消費税や関税などないこともありショッピング天国と認識されており、よくフィリピンの方々は週末にショッピング旅行を楽しんでいる方が多く、現在の香港の状況を聞きたがるのです。私はいつも「デモは週末に起きるので、週末は避けてください。でも、週末以外はデモがないので安全です。しかもホテルが通常の半分以下なのでお得ですよ。休みを取って平日にショッピングにきてみてください」と答え笑いを誘っていました。実際7-8月ごろになると、デモ活動は平日は金曜の夜くらいでもっぱら週末がメインとなっており、平日にデモが起きるということはあまりありませんでした(ただ、地下鉄は修理があるからということでいつもより早く終了してしまうので、そこは困りました)。ですので、週末に少し不便を感じる程度で、またまた徐々に他人事感が強まっていたのでした。

1-4. 切実に他人事ではなくなった
ただ、8月中旬、徹底的に困ったことが起きました。空港封鎖です。実はその頃上司と一緒に会議に参加するためにシンガポールへの出張が決まっておりました。私は一旦ジャカルタにて顧客とのアポがあったため上司より一日早めに出発して、その後シンガポールに入ることにしていたのです。

ジャカルタへのフライトが確か夕刻の4時ごろだったので、オフィスを午後1時ごろに出ました。そして、午後二時ごろには香港エアポートエクスプレスという日本でいうところの成田エクスプレスのような高速鉄道にて、香港駅から空港に向かっておりました。日本の成田エクスプレスと同様、特に平日の午後2時ごろはいつもは人がまばらにいる程度なのですが、その日はなぜか多くの若者でしかも立っている人もいるほどの大混雑ぶりでした。不思議に思っていたのですが、特に気にすることもなく空港に向かっていたのですが、理由は空港について初めて理解しました。
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* 筆者撮影

黒いTシャツを着たデモ隊の人々によって、空港が埋め尽くされていたのでした。先ほどの香港エアポートエクスプレスの人々はそれに加わろうとして集まった若者たちだったのです。上記はその際に筆者が撮影したものでしたが、写真からは分からないですが、皆非常に大きな声でデモ合唱を行っており、声が空港中に反響しており、本当に尋常ではない雰囲気でした。私といえば、空港につくなりチェックインをするためにカウンターに行こうとしたのでが、デモ隊によって出発ロビーも埋め尽くされておりチャックインカウンターにつくにも時間が相当かかりましたおそらく通常2-3分でチェックインできるのが15分以上かかったと思います。ただ、そこでも稀有な経験をし、やはり香港のデモ活動を行っている人々に共感してしまうことがございました。チャックインカウンターに向かうのに、本当に人で埋まっており、デモ隊の間を通り抜けていく必要があったのですが、「Excuse me, Excuse me」と人々を駆け抜けていくのですが、黒い服を着たデモ隊(ほとんどが20代以下の若者でした。一部報道によると学校が夏休みということもあり参加率が高かったらしいのですが、やはり若者のほうがこのような香港の未来を左右することに対して熱心に活動をしていたというのが本当のところだと、思っております。)の全員に「sorry」と言われ、なかにはわざわざ私に、「本当はこんなことはしたくないし、あなたの邪魔をしたいわけじゃない。ごめんなさい。でも理解してほしい」というようなことを何人かに言われました。一部報道によると、市街地におけるデモが過激化するに従い、警察による取り締まりも過激化し催涙弾やゴム弾をつかった沈静活動が行われており、デモ隊は場所を失い、国際的アピールをしていくしかない、とのことで最も効果的な場所として空港の占拠を選んだそうです。

ということで、私の場合は紆余曲折ありましたが、何とかギリギリ搭乗に間に合いジャカルタ便に間に合うことができました。ジャカルタについた後、一つのニュースをみてビックリしました。なんと、あの後、午後5時頃にはデモ隊による占拠が過激化したため全ての搭乗手続きを停止したそうです。つまり午後5時近く以降の便はすべて欠航になったようなのです。ということで、どうやら私はギリギリ間に合った、ということだったようなのです。ただ、まだ序の口で、翌日極めつけの出来事が起こりました。なんと、デモ隊による占拠は夜通し続き、翌朝には更に参加する人々が集結し、なんと空港が封鎖されてしまったのです。もちろん、すべての便が欠航しました。

空港封鎖です。なんと一緒に会議に参加するはずだった上司の便ももれなく欠航して、飛べなかったのです。結局翌日には飛べたので、一部会議だけ私で対応することになったくらい(本当に困りましたが。。。)で、何とかなりましたが、この時ばかりは本当に困りました。デモ隊には同情の念がありましたが、この件以降、自由を求めるデモ活動を行うことは結構だし同情もするが、他人にこれほどまで悪影響をもたらすのはけしからんと、私の中では怒りのほうがましておりました。現に、これ以降毎回出張前および出発前には、デモの状況と空港の状況を確認するようになりました。切実に他人事ではなくなったです。

この後、私の便の翌日の深夜には、とうとうデモ隊と機動隊が衝突しました。これを受けて、香港裁判所は翌日の8月14日、空港の使用妨害を禁止する臨時命令を公表し、空港に入るには、当日の航空券とパスポートのチェックが行われるようになり、原則空港に用がない人は立ち入り禁止になったのです。ですので、通常は大体出発の1時間前ほどをめどに空港に向かっていたのですが、これ以降は何が起こるかわからないのと、チェックに行列ができるので、二時間前には空港に着くようにするようになったですが、出張族である私にとっては、この一時間のロスは思ったほど大きく、大変困ったものでした。

1-5. その後、収束まで
9月4日、とうとう林鄭月娥(キャリーラム)行政長官は「逃亡犯条例改正案」の「完全撤回」を正式に表明した。しかしながら、デモ活動が静まることはありませんでした。撤回があまりにも遅すぎるという理由で、デモ隊は「五大要求」を掲げ、「一つも欠けることはできない」と抗議活動はまだまだ静まることはありませんでした。
五大要求とは;
 1.  改正案の完全撤回
 2.  警察と政府の、市民活動を「暴動」とする見解の撤回
 3.  デモ参加者の逮捕、起訴の中止
 4.  警察の暴力的制圧の責任追及と外部調査実施
 5.  林鄭月娥の辞任と民主的選挙の実現
の五つですが、1.  改正案の完全撤回は叶いましたが、残りのは4つは香港政府はなかなか飲むことができませんでした。今や、市民は今回の騒動による香港行政府および特に警察による暴力行為に対して憤りを感じており、そこが一番大きなデモ活動の原動力となっていたのです。特に、8月31日には、地下鉄駅にて特殊戦術小隊の隊員らが、地下鉄の車両までデモ参加者を追いかけて催涙スプレーを噴射した上、無抵抗の参加者らを警棒で次々と殴打するという事件がおきました。「警察は黒社会だ」と叫ぶ人を映した動画がテレビやネットで繰り返し流れ、香港市民による警察に対する怒りは最高潮に達していたのでした。

ただ、9月から10月の間は、筆者もいろいろと公私ともに不便があり影響もされておりましたが、デモと共生するというか、そのような生活にも慣れてきており、週末特に日曜にしかデモ活動が行われなくなったこともあり、少し落ち着きを見せつけ始めておりました。私生活でいうと、週末、特に日曜には住んでいる地域から外出できないので、妻のお気に入りのレストランに行けなかったりで不満が少したまっておりましたが、土曜に用事を済ませるようにするなど、それなりに適応して暮らしておりました。ただ、妻が第二子の出産予定日が11月末で、香港で又は日本に帰国して出産するか、10月中にはどちらで出産をするべきか決める必要があり、何もなければ長男が今幼稚園に通っていることもあり、香港にて出産を希望しておりましたが、デモの過激化如何によっては日本にて出産するほうがいいのではと、最後の最後まで悩んでおりました。しかしながら、長男の幼稚園は香港の自宅近くにあり、通常通り営業していることもあり、先述の通りデモ活動が落ち着き始めつつあることもあり、香港にて出産を決意しました。

ところが、その矢先11月にはデモが過激化していきました。11月4日には、香港科技大学の大学生の死亡が確認された。警察の追捕から逃げる過程で誤って転落したようですが、一連の抗議活動で自殺以外の犠牲者がでるのは初めてで、また11日には死亡した大学生に関する抗議活動が行われ、デモ参加者に向け警察隊は続けざまに実弾を3発発砲しました。このようにデモが過激化・暴力化する中、香港の大学はデモ隊の拠点となっていきました。

12日、香港中文大学構内に警察隊が強行突入し、催涙弾や放水車を使い学生を多数拘束し、香港香港理工大学では学生が学内に籠城を行い、警察との徹底抗戦となり火炎瓶や弓矢で学生側も応戦するといった「戦場」と化しました。そして、この学生たちを応援しようと、11月に入ると週末関係なく、平日夜な夜な市街地にて、デモ隊がブロックを道に撒き警察車両を妨害したり、ヘルメット、マスクそして傘などを武器に催涙弾を防御するために装備したデモ隊が、火炎瓶をなげながら警察隊とまちのいたるところで徹底抗戦が行われたり、時には中国系のレストランやショップを破壊したり放火したりなど、一番の過激化した行為が見られました。

この頃になると、各家庭の一般テレビ番組にて、記者が実況中継で夕方から深夜までずっと現場を実況中継をしており、香港では大学で街中でどんどん過激化するデモの活動がライブ・リアルタイムで見られました。その頃には再過激するデモの影響で午後7時前には自宅に帰宅するようになっておりましたから、自宅にて毎晩のように家族で過激化するデモの実況をリアルタイムで見ておりました。それはまさに、現実ではない映画のようで、といっても戦場の一シーンのようで、デモ隊がバリケードをつって、警察めがけて火炎瓶を投げている姿など本当に「戦場」のようでした。

香港における出産を選んだ我々は少し後悔しておりましたが、とはいえ後悔しても時すでに遅しで、妻は臨月に入り飛行機に乗ることはできなくなっておりましたし、また11月24日、香港では2019年香港区議会議員選挙があり、その一週間ほど前からは、デモ活動により(というよりデモを口実に)選挙がなくなっては困るということで、一斉に沈静化しました。そして、とうとうデモ活動による悪影響を受けることもなく、無事に21日には次男が生まれました。そして、3日後の24日には香港区議会議員選挙が行われました。投票率は71.2%で、前回の約2倍となり、市民の選挙戦への関心の高さがうかがえる結果でした。そもそも区議会議員選挙は香港の選挙の中で最も民意を反映しやすい選挙といわれ(行政長官などは香港市民によって選ばれないため)、デモが5ヶ月以上継続する中で開かれた今回の区議会議員選挙は実質的な住民投票という扱いになり、政府に市民が民意を示すよい機会となったのでした。結果、選挙前は約3割にとどまっていた香港デモに対して同情的な所謂民主派議員は、選挙後に8割以上に増え、逆に選挙前は約7割を占めていた親中派議員が激減したのでした。これは香港市民の求める五大要求等の要求の達成を政府に求める力強いシグナルが送られた形となり、香港の林鄭月娥行政長官も「市民の意見を聞き、真剣に反省する。」と述べたのでした。その結果、一部抗議活動は引き続きございましたが、以前のように過激化することはなく、一気に沈静化したのでした。次男を香港にて出産した我々にってこれは大変喜ばしいことでした。ただ、沈静化したとはいえ定期的にデモ・抗議活動は平和的に活動されておりました。完全に静まりかえるのは、次のあらたな事件を待たねばなりませんでした。

2. COVID-19(コロナウイルス)騒動

それは、新型コロナウィルスの発生でした。11月24日、香港では2019年香港区議会議員選挙があり、それ以降デモ活動は一気に沈静化しましたが、まだ定期的かつ散発的には活動が行われました。ただ、新型コロナウィルスがニュースのヘッドラインに取り上げるようになると一気になくなりました。ただ、ここで香港駐在員である私は、またデモよりもより厄介な危機管理に迫られることとなったです。。。

2-1. 危機意識
今まさに問題なっている新型コロナウィルスですが、香港人の危機意識は、おそらく2002年のSARSのためか、非常に高かったです。当初は今まで自分に多大なる影響を及ぼしていたデモよりも、おそらく馴染みとか経験の問題なのか、当初は新型インフルエンザが流行し始めたのか、といった‘のんき’な感じであったというのが正直な筆者の危機管理意識でございました。一方で、香港人の危機意識は高かったです。その証拠にそれ以降大規模なデモは一切おこらなかったからです(一部新型コロナウィルスにより、中国からの越境者に対する禁止措置をめぐる医療関係者の抗議活動など小規模なものはありましたが、民主運動としてのデモではなかったです)。

以下の写真をご覧ください。タクシーにアルコール消毒が設置されています(全部のタクシーではないです)が、タクシーの乗客は手の消毒をしてから乗車してほしいという運転手さんの危機意識からくるものでしょう。もちろん全開ではないですが、感染予防のため窓は開けての走行ですので、結構寒いです。以上、余談ですが香港人の感染病に対する危機意識を感じていただけたかと思います。
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* 筆者撮影

さて、正確な事実を再度確認してみると、2020年1月1日 には 華南海鮮卸売市場が閉鎖され、1月9日には最初の死亡者が確認されております。その後、タイ、日本、韓国で感染者が確認をされ、1月20日には 広東省でのヒト-ヒト感染が確認されたことが発表されました。とはいえ、香港にいた私は日本語での一次情報に触れる機会が少なかったこともあり、またその当時仕事で期限が近い仕事をしており、その対応に忙殺されていたこともあったので、この時までは危機意識は未だなく、“のんき”なものでした。その当時を振り返ってみると、私だけにとどまらず、まだ周りの職場の同僚なども含めて香港社会の間でも、さほど騒がれていなかったに記憶しております。

状況が変わったのは、私が香港を離れてフィリピンに出張に行っている時に起こりました。すでに20日から離港していた私は、仕事を終えて23日に飛行機にて香港に戻りました。20日行きのフライトではむしろマスクをしている人のほうが少なかったのですが、23日の帰りのフライトになると50%以上の人がマスクをしており、ここにおいてとうとうただ事ではなくなったなと感じていたのを覚えております。そして、香港空港にもどり帰宅途中にあの“武漢封鎖”のニュースを見て、初めて危機意識を持ちました。ただ、それでもなお、気をつけなければなという程度で、すぐ翌々日には旧正月の連休になりましので、とりあえずできるだけ外には出ないようにしようという程度で、連休の4日間はひたすら外出を控えて基本的には自宅および付近で家族とゆっくりすごしました。

徹底的に危機意識というか、むしろ恐怖を感じたというほうが適切なのかもしれないのですが、それを感じたのは旧正月の連休明けでした。1月29日、なんと出勤をするために外出すると、すでにほぼ100%の人がマスクをしておりました。それは、まるで映画の世界でした。そして、その後すぐに今度は1月30日から2月1日の3日間インドネシアのジャカルタに出張が予定されており、随分悩みましたが、マスクを二枚つけて、出張に出かけたのですが、その当時すでにジャカルタ空港についてもおそらく70-80%の人々がマスクをつけているのを目にしました。当時はまだインドネシアにおいては感染者0でしたが、そのような光景を目にして、この新型コロナウイルスはもはや中国、香港やその周辺にとどまるものでは無くなるのだろうなということを感じました。その後は徐々に日本での感染者やダイヤモンド・プリンス号の件もあり、新型コロナウイルスをめぐる一連の流れは読者の皆様がご承知のことかと思いますが、香港においてはそのころを境に、1月30日香港政府は中国大陸からの高速鉄道やフェリーの乗り入れを停止し、最終的には2月8日の中国からの越境者が、完全14日隔離されるようになりました。

2-2. 危機対策
まだまだ、新型コロナウイルスをめぐる諸々は現在もまだ進行中ですが、今振り返ってみると、香港をベースとする駐在会社社員であり、東南アジア顧客を担当する営業マンとして経済的な観点で申し上げると、この新型コロナウイルスで一番対策が迫られたのは、渡航禁止関連についてでした。というのも、営業マンとして、クライアントに直接会い営業を行うことは必須で、製造業界とは異なり目に見えるプロダクトがなく、直接的で有機的な人的関係が営業の成否をわけるその特質性から、新型コロナウイルスによる各国の渡航制限政策からは直接的な影響を受けました。特に、2/1-2/2の週末には、フィリピンで中国国外初の死亡者が確認され、とうとう中国大陸のみならず香港からもフィリピンへの入国が禁止されることとなったのです。私の担当は、東南アジアではあるのですが、収益の大部分をフィリピンに依っていることから、この規制はそうとう大衝撃を受けましたし、誤解を恐れずにいうと、正直健康面の心配よりも、その当時自身のビジネスが今後どうなっていくのかといった心配のほうが大きかったです。

各社各様で色々とあると思いますが、アジアに海外進出する場合、営業部隊などは基本的にシンガポールおよび・または香港にそのセンターをおくというのがメジャーな選択ではないでしょうか。その場合、両方に拠点があるに越したことはないのですが、進出間もない場合や規模の問題で、シンガポールに拠点を置くべきか香港にすべきか、どちらかを選ばないといけないケースが多々あると思います。そのためこの両都市はよく比較されます。

一般的には、香港は中国へのアクセスが強く、経済的な規模の観点からアジア全体をカバーするという意味では比較優位があるといわれることが多く、一方で東南アジアに特化する場合はシンガポールのその地理的優位性から比較優位があるといわれることが多くあるかと思います。ただ、この時ばかりは中国へのメリットが逆にデメリットにもなるのだなということを感じました。つまり香港のメリットがデメリットになったということです。

私はというと、渡航禁止への対応策として、まだ入国が禁止されていないシンガポールへ一時避難することになり、営業マンとして一旦香港を離れシンガポールをかませながら、東南アジア各国を飛び回ることになったのです(今現在一か月ほど香港に自宅には帰れておりません)。本記事も現在マニラのホテルで書かせていただいております。今後については、まだよくわかりませんが、東南アジアを担当する営業マンとしては、さらなる危機対策が求めまれておりまして、本当に困った状況となっております。むしろ、香港デモより大変かもしれません。

3. アジアのハブとしての香港(vs. シンガポール)、そしてフィリピンの現況

以上、香港駐在会社社員の現地レポートというと聞こえはよいのですが、ただの日記のようなものとなり、中小企業診断士としてはどうなのかという感じもございますので、最後に今までのところから、少し診断士として思料あることを書かせて頂きたいと思います。

3-1. アジアのハブとしての香港(vs. シンガポール)
強大で巨大なマーケットである中国へのアクセスというメリットがありながら、今回の一連の香港におけるデモ活動や新型コロナウイルスでの一軒から、それは時にはかなりのデメリットもあるということを実感しました。そのような意味では、こと今回に限っていうとシンガポールのほうが安定しているといえると思います。ただ、シンガポールにも一党独裁という政治的なリスクはいつもございますし、感染症の発症地が東南アジアの隣接国でということも今後ありえます。

今回の一連の危機的状況の発生およびその危機管理を経験しますと、やはり企業にとって、ただでさえ新規マーケットである海外進出を行うということを考慮していくと、やはりリスクヘッジは薦められるべきものであるのかと、つまりコストの重複はありますが、香港かシンガポールどちらの拠点を設けるか又はどちらから攻略していくべきかの回答としては、今後やはり両方に拠点があり又はターゲットとしたり、バランスをとり双方に拠点を持っておく又は持てるように常にしておく、今後ますます重要になってくるのではないかと痛切に感じました。

3-2. フィリピンの現況
2018年6月「香港のとある日曜の風景から見えた『フィリピン』について」を記載させていただきましたので、今回の一連の香港におけるデモ活動や新型コロナウイルスを経て見えてくることを中心に、フィリピンの経済状況についてアップデートをさせていただきたいと思います。

①マクロ経済見通し
まず、前回の記事以来2019年のフィリピンの経済成長は、一部政府部門での国会による予算案通過などが遅れたこともあり、フィリピン統計局(Philippine Statistics Authority )の発表によると、2019年のGDP成長率は前年対比5.9%と政府が当初目標に掲げていた6.00~6.5%の目標について、未達となりました。
前回の「香港のとある日曜の風景から見えた「フィリピン」について」を少しだけ振り返ってみますと、フィリピンのマクロ経済をその経済構造で大まかに見てみると、以下2点の大きな特徴が見られました。

・GDP構成から → GDPにもっとも貢献しているのが民間消費であることが分かります。平均年齢24歳(対して高齢化がすすむ日本は46歳)と若いフィリピン国内には旺盛な国内民間消費=需要が見られることが分かり、これがGDP成長の最大要因となっている。逆に旺盛な国内需要を国内供給で賄うことがまだできていない状況で、インフレの問題および輸入超過が経済のアキレス腱となっている。

・経常収支構成から → 輸入つまり、貿易・サービス収支による赤字相殺に大きく貢献しているのは、大幅な第二次所得収支の国内流入、であること(所謂Overseas Filipino Workers(“OFW”)(フィリピン統計局 (Philippine Statistics Authority)の報告によると、2017年全世界におけるOFWは約230万人)による海外送金による流入)。

2019年フィリピンの経済成長は、前述のとおり目標未達ではありましたが、引続き6%台にかなり近い数字を達成しており、前回記事でも指摘させて頂いた、フィリピン経済一番の懸念であった物価が安定してきており、現に2020年2月の数値2.6%(フィリピン統計局)と、2018年のピーク時6.7%と比べると、かなり低い数字で落ち着いており、フィリピンン中銀の政策目標閾値である2~4%の範囲内で、落ち着いてきている事が分ります。

以上のことから、現在世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルスによるリセッション(景気後退)が可視化されつつありますが、フィリピン経済はそのインフレ状況が落ち着きつつあることから、日本とは異なりフィリピン中銀は政策金利および預金準備率の引き下げといった経済緩和政策を柔軟に実施することが可能であるため、新型コロナウイルスによる影響を全く免れることはおそらく無いと思われるものの、大きな悪影響を避けられる可能性は髙く、今後の見通しは安定的だといえます。

ただし、ダウンサイドとしては、今のところ経済収支を支えているOFWの海外送金が今後縮小傾向にあるところでしょうか。現に、フィリピン政府は早々に2月1日には、中国大陸に加えて香港からのフィリピンへの入国も禁止しており、新型コロナウイルス対策として迅速かつ厳しい渡航規制を実施しております。これはOFWの海外送金による二次所得収支にかなりマイナスに働く可能性があり、これがとりわけ短期的には注意すべきポイントになるかと思われます。フィリピン政府もこの状況はよく理解しており、現に、フィリピン保健省(Department of Health)は2月18日にも、フィリピン人の香港とマカオへの渡航については、新型コロナウイルスへの感染リスクを認識・理解する旨の宣誓書に署名することを条件に、許可する決定を行い、その影響の緩和策に乗り出したほどです。

②チャイナプラスワンの候補となるか
やはり長期的な目線で見た場合、前回の「香港のとある日曜の風景から見えた「フィリピン」について」でご説明申し上げた通り、国内産業(特に製造業)を育成し国内供給能力を向上させることで、貿易収支の赤字を縮小させることがフィリピン経済には必要で、フィリピン工業の発展が最重要なのであります。

そのような意味では、今回の新型コロナウイルスに関する状況は、本邦企業にとどまらず全世界の企業が、ますますのチャイナプラスワン構想を推し進める機会となることでしょう。そのような状況において、フィリピンは今その機会を好機に変えられるかある意味正念場にいるのかもしれません。中国に代わる生産拠点としてどこまで世界の企業に注目されるか、今後の注目ポイントだろ思います。小職の個人的な意見としては、フィリピンがこれを好機とする可能性は高いと思います。理由は前回記事でご紹介したとおり(詳細は前回の「香港のとある日曜の風景から見えた『フィリピン』について」をご参照ください)。

1. 英語が堪能
2. 人件費が比較的安価
3. 地理的優位性(飛行機で約5時間でアジア全体がカバーできる)
4. 強権であるがバランス感覚に優れた現フィリピン政権

今まさに新型コロナウイルスの一連の騒動により、フィリピン経済ははともに沈むのか、逆にそれを糧に他の東南アジアより高い成長の軌道にはいるのか、その岐路にたっているのだと思いますが、以上の理由からその可能性はアジアのどこの国よりも高いと見ることができると思っております。また、そこに診断士としての我々の大きなビジネスの可能性があることを疑う余地はない、と小職は思います。

4. 最後に

今回、海外駐在員の日記のような形になり大変恐縮しております。グローバル・ウインドのテーマとして適切かどうか悩んだものの、言い訳ではないのですが2019年の夏から今まで本当に公私ともにこれでもかというほどご紹介させていただいた通り色んなことがございまして、公私ともに忙しい日々を過ごしておりましたところ、誠に僭越ながらこの度縁があり再びグローバル・ウインドの記事を書かせていただくことになりまして、実はテーマについて悩んでいる暇さえなかったのです。ただ、ここまで最後までお読みいただいた方々は少しでも興味をいただいたということかと思いますが、本記事が皆様方の何かのきっかけであったり、関心の一助となったことを祈りつつ、最後までお読みいただきましてこと感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
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■望月 優樹(もちづき ゆうき)
京都出身、1983年生まれ。慶応義塾大学法学部卒業後、証券会社に入社。以後一貫して、外国顧客向け債券資本市場による資金調達業務に従事。現在は営業員として、香港を拠点に東南アジア顧客を担当。中小企業診断士試験の受験開始は学生時代、紆余曲折あり苦節10年?の末、やっとの思いで2014年度合格。2015年登録。現在、活動休止中。

東京都中小企業診断士協会中央支部 国際部 所属
香港中小企業診断士の会 所属