グローバル・ウインド

中央支部 藤田 泰宏

1.はじめに
  私は2019年11月17日から11月23日の間、東京都中小企業診断士協会の「中国大湾区海外事業調査団」に参画した。大湾区とは、中華人民共和国国務院によって制定され、香港・マカオ・広東省珠江デルタの九つ都市(広州、深圳、東莞、恵州、仏山、江門、中山、珠海、肇慶を含む)を統合したグレーターベイエリアを目指す地域発展計画の地域のことである。

図表1 大湾区

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 調査団は、深圳、マカオ、香港の順に現地に進出した日系中小企業やジェトロ、日本人商工会議所等の支援機関を訪問し、松枝東京協会会長を団長とし合計19名の団員が分担して報告書を作成した。
 当時香港では2019年に香港区議会において審議入りした逃亡犯条例改正案への反発に端を発する香港民主化デモは条例案が撤回されても収束せず、日を追う毎に過激化した。大学や地下鉄が閉鎖され、連日警察とデモ隊との衝突がマスコミ報道でも盛んに報道されていた。調査団の旅程最終日の翌日である11月24日は区議会選挙の投票日で、街中は緊張感に包まれていた。
 こうした中、一時は調査団の派遣を見合わせる声も出ていたため、希望者のみの参加となったが殆どの申し込み者は参加した。ここでは、調査団員として私が担当した日系中小ベーカリー企業(A-1ベーカリー)のヒアリング報告書に加筆・修正したものを掲載させて頂きたい。

2.A-1ベーカリー本社事務所を訪問
■企業概要:
 11月21日(木)午前10時過ぎに香港に進出し成功を収めている日系中小企業のA-1ベーカリー本社事務所を訪問し、揚井元伸Executive Director & CEOおよび田渕義和Chief Operating Officerの説明を受けた。その後、同社の直営店を見学する予定であったが、訪問予定のショッピングモールが香港のデモ等による混乱のため閉鎖されており断念した。
 同社の設立は1984年、現在店舗数59店、従業員数886人(2019年11月現在)で、年商は約100億円に成長した。店舗は、地下鉄駅前等の好立地で展開している。

図表2 香港の地下鉄沿線に広がる店舗網

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■香港進出の当初の経緯から現在まで:
 同社は現在、関西でインストアベーカリーのチェーン店舗展開をしている同社の創業者が香港で設立した。現在は長男の揚井元伸が香港を中心とした海外事業を取り仕切っている。
 当初、創業者が大阪で事業経営していた1980年代前半の頃、台湾より製パン技術の指導要請を受け対応したところ、反響が大きかった。これがきっかけで、アジア地域に進出することを決断。最終的に原材料の輸入関税がかからず、所得税、法人税ともに低率であることが香港進出の決め手となった。
 香港での一号店については、当時日系の食品スーパーであったヤオハンが香港郊外の住宅地であった「沙田(サーティン)」に一号店を出店することを決めており、同社は隣接する立地を選択した。当時沙田は、現地人の新興住宅街であり、既にヤオハンが商圏調査を行っていた。沙田駅前の後背地には新築マンション街が立ち並び、ヤオハンは十分な潜在需要が見込まれると判断し現地化する戦略を採ろうとしていた。同社もそれに追随し、ヤオハンに来る現地人がついでに同社のパン類を購入することを狙ったものである。

図表3 現在の沙田(サーティン)駅前一号店の外観

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図表4 現在の沙田(サーティン)駅前一号店の内部

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 しかし、当初は既存の日本人向けのパンでは売れないので、味覚の差をどうすれば乗り越えられるか試行錯誤の連続であった。土日しか売り上げが立たず、コーヒーショップやラーメンまで販売する等苦労の連続であったが、沙田地区の人口増加に伴い、売上げも伸び事業は軌道に乗り始めた。
 2010年には豊田通商等との3社合弁で中国、深圳へ進出したが、3社の足並みが揃わず数年後に撤退した。だが、そこで苦労して得た店舗運営、物流等のノウハウはその後の香港での事業展開に活かせることとなる。
 近年、香港での地代家賃、人件費の高騰により収益性が圧迫され多くの日系同業他社が撤退するなか、当社は2014年にはSAPを導入し事業オペレーションの自働化によるコストダウンの徹底を図った。また、香港で事業を継続させるには家賃の問題が大きいと考え、長期的には不動産価格は上昇すると予測し、70%の工場、事務所を自社物件にして固定費の上昇を抑えている。
 しかし、2018年には、人件費等の高騰により人件費のかかる12~13店舗を保有するレストラン事業を全て売却し、本業である物販事業に集中することにした。2019年には、残されたレストラン事業の惣菜等加工セントラル基地を活用するため、大手小売り、製パン菓子メーカー、レストランチェーン等に卸事業を展開している。

図表5 卸売り先のスーパーで陳列されている商品等

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■今後の方針
 今後、香港市場では100店舗まで拡大させる計画を持っているが、それ以上の拡大は難しいと考えている。中国市場への進出は一度失敗していることもあり、自社での小売店舗の展開ではなく、BtoBの卸売りに将来性があるとしている。また、フィリピンやベトナムへの自社ブランドでのFCでの小売店舗の展開も検討中だという。

■同社事業成功の理由
 徹底して現地人の嗜好・味覚に対応する現地化戦略、小規模な店舗を駅前の好立地に出店し、失敗と思えば直ぐに撤退する柔軟・迅速なスクラップアンドビルト戦略、生産工程のIT化等による徹底したコスト削減、24時間稼働体制によるフレッシュな品質の提供等による大手との差別化戦略、自社ブランド戦略、工場や事務所等の自社物件保有戦略等が同社事業成功の理由と考えられる。

■感想
 激しい自由競争が渦巻く香港市場で多くの日系大手同業者が撤退するなか、同社は工場、事務所の自社物件取得に向けた不動産投資、中国進出やレストラン事業からの撤退等中小企業ならではの変化へのスピーディーな対応や思い切ったリスクテイク等の強みがあると感じた。
 また、オペレーションのIT化、大手とのダブルブランド展開、メンバーシップ制、ネットオーダー決済等、ありとあらゆる新しい手法や技術を積極的に取り入れ、バイタリティの強さを感じた。

3.香港のベーカリーの昔と今
 私事ながら私が総合商社の食料本部に就職し、最初の主担当の仕事は香港に小麦粉を輸出することであった。日本で生産される小麦粉は製粉工場で機械的な篩いにかけて特等粉、一等粉、二等粉、三等粉、ふすまなどに取り分けられる。等級が上がる程灰分がより少なく見た目が白い小麦粉になる。特に日本では取り分けを厳しくする理由は、消費者が見た目の白いパンやうどん等の麺類を好むためだ。結果的に二等粉以下の小麦粉は国内市場では売れず構造的に在庫となる。ただし、ふすま分の多い等級の低い小麦粉は見た目はともかく、むしろ栄養価は高い。
 一方、パンの白さに拘らない中華麺を食べる中華系の人々にとっては小麦粉の白さよりも価格の安い方が重視されるので、当時日本国内で在庫となった灰分の多い小麦粉でも値段が安ければ飛ぶように売れたのである。
 当時の香港サイドの販売パートナーであった現地の卸売業者の名前をA1ベーカリーの担当者に聞くとその名を知っていたので、現在も続いている日本産小麦粉の輸出(現地では輸入)品が同社でも購入され加工されて小売店舗に並んでいるかもしれない。
 今から約30年以上前の話であるが、当時の現地卸売り業者は日本から輸入した小麦粉の販売先のベーカリーや洋菓子業者を組織化し、毎年20名程度の団体を組織し、日本のインストアベーカリーやデパ地下などの視察に訪れていた。私は、彼らのアテンドも行っていたので、当時の香港の業者は日本の洗練されたインストアベーカリーや洋菓子店の経営や商品の製法を学びに来ていたのである。しかし、今回香港を訪問して、陳列や商品の品質に格差は全くないことを実感した次第である。但し、味付けや具材には異なる部分もある。

4.香港の市街地で見たもの
 冒頭でも述べたが調査団が香港に滞在した期間は区議会選挙前のデモが一時的に収束していた。しかし、訪問予定のA1ベーカリーのショッピングモール内の店は閉鎖され、路面の石畳はあちこちで投石やバリケードを築くために剥がされた跡が見られた。

図表6 剥がされた路面の石畳

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 また、市中ではあちこちで落書きがされ、その内容は、以下の写真のように「反抗」とか「you can’t kill us all.」の他、「Fight for freedom.」等と書かれていた。現地の日本食の輸入卸をとりまとめる香港華僑の重鎮と夕食をする機会があったが、デモの参加した多くの大学生(1000人程度)は逮捕され、中国に送られ、その内100人位は消息がわからないと言っていた。あまりはっきりとは言わなかったが、マスコミ報道だけではわからない裏事情を匂わせるものであった。
 「you can’t kill us all.」という落書きは、皆殺しにはできないので、たとえ自分や仲間は殺されても、生き残った者が最後の一人まで戦うという決意表明にも取れる。まさに民主主義と全体主義の価値観がぶつかり合っている現場なのだ。
 太平天国の乱(清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱)を率いた洪秀全や清朝を倒した孫文も現在の広東省の出身であり、歴史は繰り返すのだろうかとの思いがよぎる。

図表7 市中での落書き

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 ただ、香港の全域がこのような状態になっている訳ではなく、多くの地域では通常の日常生活が営まれていた。視察団の日程の合間を縫って開いている小売店の食品売り場を視察したが、日本の高級果物(メロン、スイカ、シャインマスカット、リンゴなど)や和牛、水産物が陳列されていた。香港にはグルメのヒトが多く、来日観光客の中でも一人当りの食費に使う金額が世界一である。何度も来日するヒトも多く日本の食品も知られているので、帰国後もこうした店で買う人が多いと考えられる。

図表8 食品売り場での陳列

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 陳列されている商品の価格は、日本で買う価格の1.2~1.5倍程度と考えられる。水産物等の高級生鮮品は空輸されるが、運賃がかかる割には以外に安いという印象だ。現在でも日本から輸出される農産物・食品の金額は、国別で一番多いのが香港である。

図表9 香港向け農林⽔産物・⾷品の輸出額の推移

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 今後とも輸出量の拡大が期待される一方、米中関係を軸とする政治的な問題で香港の経済活動がするようなことがあれば、それは懸念材料となる。新型コロナウイルスの蔓延も含め、今後の動向から目が離せない。

 
■藤田泰宏(ふじたやすひろ)
1979年京都大学農学部卒業、1979年4月~2005年3月 (株)トーメン食料本部。20年間営業部、5年間経営企画部。米国オレゴン州ポートランド、テキサス州ヒューストン駐在。2005年4月~2016年5月(株)Z会。BCP導入、リスクマネジメント導入、同委員会運営を主催。2016年6月、中小企業診断士として独立。現在、FMC フジタ・マネジメント・コンサルティング 代表、(株)ワールド・ビジネス・アソシエイツ 理事 チーフ・コンサルタント、(独)中小企業基盤整備機構 関東本部企業支援部 チーフアドバイザー。