中央支部・国際部 池内 優衣
はじめに
学生時代、日本人が選ぶにはそれなりに珍しい留学先であるベルギー王国に交換留学という形で渡白(ベルギーは日本語で「白耳義」というらしい)した。
異国の大学で単位を取得することも私にとってはなかなかのチャレンジだったのだが、留学中にもともと興味があったダークツーリズムを巡った経験は、非常に貴重なものになったため、こちらで共有したい。
なお、タイトルで想像できるとおり、少々ショッキングな写真や内容が含まれるため、苦手な方はこのままページを閉じていただきたい。
留学先ルーヴェン大学のメイン図書館(筆者撮影)
なぜダークツーリズム?
私は高校で世界史を学んだあたりから、いわゆる「負の遺産」に興味をもってきた。自分でその理由を明確に整理できているわけではないのだが、直接的な施設や場所に魅力を感じるわけではないことは確かである。現地を訪れて、なんとなく、その場にいた人や習慣に思いを馳せることが、実に安全で、「自由意志」でありとあらゆる人生の決断と実行ができる、2025年を生きる自分にとって非常に価値のあることだと感じていて、恐らくそれは一種の使命である、と考えているのかもしれない。
ホロコースト※の象徴「アウシュヴィッツ強制収容所(アウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館)」
※:ナチス・ドイツがドイツ国内や占領地でユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺
有名な、収容所入口に掲げられた看板(筆者撮影)。
「働けば自由になる(Arbeit macht Frei)」は、ナチス・ドイツがユダヤ人を収容する強制収容所のスローガンである。ちなみにこの看板は一度窃盗にあったが、その後見つかって戻ってきた
アウシュヴィッツ強制収容所は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが運営した最大規模の強制収容所だ。ポーランド南部の都市オシフィエンチムに位置し、ドイツ語で「アウシュヴィッツ」と呼ばれていたことからその名がついた。
ポーランドのクラクフ空港からクラクフ市内までバスで40分、市内のバスターミナルからアウシュヴィッツ行きのバスが多数出ており、そのバスにのって強制収容所まで約1時間半だ。
アウシュヴィッツ強制収容所は、ご存知の通りホロコーストの最も象徴的な場所である。ナチス・ドイツが国家として推進した人種差別による絶滅政策と強制労働により、第二次世界大戦中のナチスの強制収容所の中で最も多くの犠牲者(110万人が亡くなったと言われている)を出した。収容者の約90%がユダヤ人であった。
「アウシュヴィッツ強制収容所」は巨大な複合体であり、三つの大規模な強制収容所、その他副収容所や工場、農場などの複数の構成要素からなっていたが、証拠隠滅等を目的としてその後ナチスによって破壊されたため、現在博物館となっている第一強制収容所、第二強制収容所以外は残っていない。
現在は「アウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館」として第一強制収容所を中心に当時のガス室や遺品、写真などが展示されており、全世界から毎年200万人以上が訪れている。
あまりにも有名かつ巨大な博物館で情報過多なので、詳細が気になった方は、公式ウェブサイトにある日本語訳の資料を是非ご一読いただきたい。
https://www.auschwitz.org/gfx/auschwitz/userfiles/auschwitz/historia_terazniejszosc/auschwitz_historia_i_terazniejszosc_wer_japonska_2010.pdf
アウシュヴィッツは、とにかくその施設の巨大さ・個々の展示の量に圧倒される。メインの博物館がある第一強制収容所と「ビルケナウ」という名で知られ、有名な「死の門」がある第二強制収容所は3キロほど離れていて、自家用車やオフィシャルのシャトルバスで行き来ができる。第二強制収容所の総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分!)だが、ほとんど建物は残っていない。
入場料金は無料で、シーズンや混雑具合等によってなんらかの言語のツアーに参加しなければ入場できない可能性がある。有料だが日本語のツアーもある(事前予約が必要)。私は英語のツアーに参加して入場し、自分のペースでまわりたいので途中で離脱した。
強制収容所の中でもその知名度と入場者数の多さから、かなりシステム化され、商業化されている印象を受けたが(入口で外貨の両替ができたりする)、それでもバラック(寝床があるだけの居住棟)の多さやガス室、収容の際に回収されたバッグや靴、眼鏡、刈られた髪、衣類等のその量を見ると、形容し難い苦しい感情がこみ上げる。
第二強制収容所ビルケナウの死の門(筆者撮影)。ヨーロッパ各地からこの線路で収容者が移送された
第二強制収容所ビルケナウの一部(筆者撮影)。広大な敷地で果てが見えない
第一強制収容所跡地の博物館に展示されている収容者の靴(筆者撮影)
数千人が銃殺されたという「死の壁」(筆者撮影)
破壊された建物(筆者撮影)。ソ連軍の進攻を前に、大量虐殺の証拠を隠蔽するためガス室や火葬場等の建物はダイナマイトで破壊された
バラック内のベッド(筆者撮影)。この一つのスペースに何人かで寝る
ザクセンハウゼン強制収容所(ザクセンハウゼン追悼博物館)
ザクセンハウゼン強制収容所の跡地入口(筆者撮影)
ドイツのベルリンから北へ電車で約一時間、静かな街並みが広がるオラニエンブルクという街に、ザクセンハウゼン強制収容所という収容所がある。アウシュヴィッツがホロコーストの象徴であるのに対し、ザクセンハウゼンはナチス・ドイツの強制収容所システムを統括する「モデル収容所」として知られている。1936年に建設され、約10年で20万人以上を収容した。ドイツの首都ベルリンに近いため、強制収容所全体の管理・運営の中心地として機能した。
収容所は扇形の独特な形状をしており、見張り塔からすべての兵舎を一望できる構造になっていた。囚人を効率的に監視するための設計らしい。敷地内には、過酷な労働を強いられたレンガ工場、医療実験が行われた場所、そしてガス室と焼却炉の跡地等が残っている。建物の一部は博物館として保存されており、当時の囚人たちが使っていた道具や衣服、顔写真などが展示されている。
モデル収容所としての機能があるため、施設の設計に関する書類の展示物が目立った。ナチスのイデオロギーを具現化した、効率的な監視と管理、そして非人道的なシステムを学ぶ上で、非常に重要な場所である。個人的には特に、独房や解剖室、遺体安置所が生々しく印象的であった。
こちらも入口にスローガンの看板がある(筆者撮影)
収容所の設計・レイアウト図のようなもの(筆者撮影)
解剖室(筆者撮影)
ダッハウ強制収容所(ダッハウ強制収容所記念館)
ダッハウ強制収容所を象徴する記念碑(筆者撮影)
ドイツのミュンヘン中央駅から北西に電車で約30分。こちらも長閑な住宅街の中に、ダッハウ強制収容所がある。1933年より運営が開始されてから1945年まで20万人以上が収容されたと言われている。この場所は、ナチス・ドイツが常設としては初めて建設した強制収容所であり、ザクセンハウゼン同様、強制収容所の「モデル」となった場所だ。看守の訓練、収容所の管理システム、そして囚人に対する非人道的な扱いのマニュアルがここで確立された。ダッハウは、ナチスの恐怖政治の始まりを象徴する場所ということだ。
ホロコースト関連の著書で有名な『夜と霧』の著者であるユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルも一時ダッハウ強制収容所に収容されていたといわれている。
私が訪れたホロコースト関連の博物館・記念館の中では、一番印象に残っていて、最も“よかった”と思う施設である。
何がよかったかと言われると言語化できるか自信がないのだが、そこに「自然に存在している感」があった。もちろん、後から作られた記念碑もあるし、入口のビジターセンターは割と近代的だったし、基本は破壊されているので、復元された建物もたくさんある。しかし、敷地内に流れる小川や、越えたら一瞬で射殺される柵のすぐそばにある長閑なドイツの村風景を感じていると、当時の様子が今この瞬間に感じられるような気分になる。「いかにも」な感じがなく、ただただ実際にそこに当然のように存在したであろう事実が感じられて、それが生々しかった。
こちらもバラック含めほとんど建物が破壊されているが監視塔(奥に見える長い建物)が残っている(筆者撮影)
普通に川が流れる(筆者撮影)。
この小川にかかった橋を渡って、かまどや遺体安置所、ガス室等を備える火葬場エリアに行く。とても印象的だったが、なんだかそんな気になれず、写真を撮らなかった
虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑
特徴的な記念碑(筆者撮影)
ドイツの首都ベルリンの中心部、ブランデンブルク門のほど近くに「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」がある。この記念碑は、ホロコーストの犠牲となったユダヤ人たちを追悼するために、2005年に一般公開された。ベルリンの街の景観に溶け込みながらも、その圧倒的な存在感は、訪れる人々に強烈な印象を与える。
約1万9000平方メートルの広大な敷地には、高さの異なる2,711個のコンクリート製の石碑(ステラ)が、格子状に並べられている。石碑の間を歩くことができるのだが、まるで墓地にいるかのような静寂と、深い絶望感が押し寄せてくる。
記念碑の下には、「情報の場」と呼ばれる地下展示室がある。展示の中心は、ホロコーストで殺害された600万人ものユダヤ人の個人的情報、写真、家族にあてた手紙等で、一人ひとりの犠牲者の人生に焦点をあてている。
中でも印象に残っているのが、「名前の部屋」という照明が落とされた暗い展示室だ。そこでは、殺害または行方不明になったユダヤ人の短い伝記が読み上げられると同時に、その人物の名前、生年月日、そして死亡年が、四方の壁にとてもシンプルに白い文字で、次々に投影されていく。すべての犠牲者の名前と生涯を読み上げるには、6年8ヵ月かかるという。
ナチス・ドイツによって故郷や文化、そして世界から引き離されたユダヤ人の存在を今日に証明する遺物はほとんど残っていないし、多くの場合、名前さえも知られていない。そんな犠牲者の匿名性を、証言者や歴史の研究によって解放しようとする試みらしい。
その部屋の中央にある椅子に座り、ただただ壁に映される人の名前を眺めて、本当に短いその生涯のハイライトを聞きながら、じっくりその人の事を思う時間は、私の人生の中でも、とても大切な時間だったと思う。
地下展示室「情報の場」(筆者撮影)
ナチスの強制収容所があった場所の地図の展示(筆者撮影)
おわりに
私が訪れたダークツーリズム(ホロコーストのみだが)について場所と事実を中心に紹介した。ヨーロッパの旅は、限られた面積の中に多様な文化や歴史、そして思想が凝縮されていることが魅力だと思う。行きたい場所は尽きないし、有名な場所もたくさんあるが、その選択肢の一つに是非負の遺産も加えてほしい。私自身、強い思想や信仰を持つわけではない(少なくともメタ認知的には)。しかし、事実として何があったかを知ることは、自分たちの住む国や世界を理解することにつながると思う。
おわりに、今回の内容に関連するコンテンツを紹介したい。
①書籍:エーリヒ・フロム『自由からの逃走』
人間が自由を得ることで生じる孤独や不安から逃れるために、権威に服従したり、破壊的な行動に走ったり、画一的な社会に埋没したりする心理的メカニズムを明らかにした社会心理学の古典。
名著なので読んでいる方も多いかと思うが、ファシズムを考える上で役に立つ。
②映画:『関心領域』(英タイトル:The Zone of Interest)
執筆している2025年9月現在Amazon Primeで視聴可能。是非ネタバレなしで見ていただきたい。
■池内 優衣(いけうち ゆい)
2024年中小企業診断士登録、東京都中小企業診断士協会 中央支部 国際部所属。
データ解析や不動産サービス業のグロース上場企業にて経営企画・IR(インベスターリレーションズ)業務に従事。企業内診断士。
記事のコンテンツ・情報について、できる限り正確な情報を提供するように努めておりますが、正確性や安全性を保証するものではありません。情報が古くなっていることもございます。
記事に掲載された内容によって生じた損害等の一切の責任を負いかねますので、あらかじめご了承ください。






