<はじめに>
 2020年初頭より世界的に感染が始まった新型コロナウイルス(covid-19)の感染拡大により、日本でも2020年4月7日より緊急事態宣言が発出され、5月25日に宣言が解除される約二か月にわたり経済活動や市民生活に大きな制約がかかりました。この間多くの企業ではテレワークによる在宅勤務が推奨され、閑散としたオフィス街の映像が繰り返し各種メディアで流されていたことは印象的でした。2020年7月現在、東京都で連日200名を超える感染者を記録するなど、まだまだ警戒を解除できる状況ではありません。
 この緊急事態宣言の期間に企業のテレワークの実態はどうだったのでしょうか?
 東京都が2020年4月に実施した「テレワーク実施率緊急調査」の結果を見ると、都内企業(従業員30人以上)のテレワーク導入率は62.7%。3月時点の調査(24.0%)に比べて2.6倍に大きく上昇する結果となっています。
 同様に東京商工会議所が2020年5月29日から6月5日に実施した「テレワークの実施状況に関する緊急アンケート」の結果ではテレワークの実施率は67.3%(3月調査時に比べ、41.3ポイント増加)という結果となっており、東京都の6割以上の企業で緊急事態宣言の下テレワークを実施していたという結果となっています。ただし従業員の規模によりばらつきがあり、従業員30人未満の企業のテレワーク実施率は45.0%ですが、30人以上では74.1%、300人以上では90.0%と、従業員規模が大きくなるに従い実施率は高いという結果となっています。

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 同調査によると、テレワークを実施した際に生じた課題は、回答者全体では「ネットワーク環境の整備」(56.7%)が最多でした。ただし緊急事態宣言発出前よりテレワークを実施していた企業に限ってみると「書類への押印対応」(60.1%)が最多となっています。緊急事態宣言により急遽テレワークを余儀なくされた企業にとっては、PC等機器の確保やネットワーク環境などインフラ面の整備が当面の課題となることは理解できます。ただ本質的なテレワークの課題はこの「書類への押印対応」にみられるように日本の紙文化・「はんこ」文化にあるのではないでしょうか?
 経費精算クラウドサービスを提供する株式会社コンカーの調査によるとテレワークを阻害している業務の1位が「経費精算・請求書・契約処理等のペーパーワーク(33%)」2位が「押印による承認業務(22%)」となっており、テレワークを阻害する要因の半分以上を占めていることがわかります。日本CFO協会が実施したアンケート「新型コロナウイルスによる日本企業の経理財務業務への影響」でもテレワークを実施できていない企業の最大のネックとして「請求書や証憑などの紙の書類がデジタル化できていない」(77%)という回答が最も多くなっています。

<日本の「はんこ」文化とは>
 そもそも日本の「はんこ」文化とは何でしょうか?「はんこ」文化と問われ、思い出されるのは、歴史の教科書に出てくる18世紀に福岡県志賀島で発見された金印ですが、一説では西暦57年に後漢の光武帝より贈られたものとのことで、2000年ほど前から日本に「はんこ」が存在していたと思われます。私文書に広く使用されるようになるのは江戸時代のことで現在の印鑑登録制度も江戸時代が始まりと言われています。明治維新後、欧米諸国に倣い署名制度を導入しようという議論はありましたが、当時の識字率の低さなどを理由に1900年、「商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律」が成立。これによって法律上、自分で署名することに変わり記名・押印でも同格の効果が与えられることになったことが今に伝わる「はんこ」文化の経緯と言われています。
 この法律で注目すべき点はあくまでも「署名」が正で、「記名・捺印」は従であるということです。それがなぜか商慣習では「記名(署名)・捺印」が正で「署名」が従といつの間にか立場が逆転してしまい、正式文書や契約書、あるいは行政に提出する文書については「はんこ」が重視されるようになりました。

<「はんこ」文化の問題点>
 「はんこ」文化の問題点とは、デジタル化されていない紙をベースとした業務設計にあると思います。テレワークの問題でいうと紙を印刷してそれを捺印者の手元に物理的に届けなければならないこと。複数の承認者がいる場合には次の捺印者の手元に郵送しなければならない点。そもそも会社の印鑑は会社の金庫に保管されていて出社が前提になっていることなどだと思います。捺印された文書もそれを相手先に郵送しなければならず、受け取り側も含め、テレワークの課題調査結果の通り紙と「はんこ」文化がテレワーク推進の阻害となっているのだと思います。
 ただし捺印の電子化については相手先との合意が必要になってきます。通常の時であれば「はんこ」をなくすメリットは双方あまり感じられなかったかもしれません。ただこの状況下では相手先も同様の課題認識を持っているケースも多いと考えられます。今が捺印電子化・デジタル化を推進する絶好の機会ともいえるのではないでしょうか?

 「はんこ」を使用する3つの場面として、大きく下記3つのシーンが想定できます。
  ① 稟議書、決裁書、経費精算書など社内ドキュメント
  ② 注文書、見積書、請求書など片方の捺印で完結するもの
  ③ 契約書、覚書など双方の捺印が必要なもの
 このうち②③に関しては自社の都合だけで推進するわけにはいかず、相手先の合意が必要になります。①→②→③の順で難易度が高まってきますので、まず①自社の社内ドキュメントについては「はんこ」をなくしていく取り組みはできるのではないでしょうか?

 では「はんこ」の代替手段は何があるのでしょうか?
 捺印電子化に関連するキーワードとして、電子署名、電子契約、電子サイン、電子捺印、電子印鑑などいろいろな用語が使われます。それぞれ法律的観点やその文脈により様々な使い方がされています。厳密にはいろいろ定義があると思いますが、ここでは「はんこ」の代替としての観点から「電子署名」と「電子印鑑」について説明したいと思います。

・電子署名とは
 2001年には電子署名法が施行され、電子署名が手書きの署名や押印と同等に通用する法的基盤が整備されました。この法律では、①電子ファイルに行われる署名で、②本人が行ったことを示すものであり、③その電子ファイルに改変がないことを確認できるものを「電子署名」と呼んでおり従来の手書きの署名や押印と同等の効果を認めています。電子署名は印影や手書きのサインの形態をとる必要はなく、あくまで目に見えない電子的な署名です。本人性の担保や非改ざん性を担保するためには、署名する本人が電子認証機関による認証をとるものと、クラウド事業者が証明を行う方法が広く実施されています。

・電子印鑑とは
 ここでいう電子印鑑とは、上記の電子署名の要件のうち、本人性の証明や厳格な改変の有無の証明をなくしたものと定義します。具体的にはPDF等の電子ファイルに印影を埋め込んだものをイメージしていただければ良いと思います。先の例でいう①社内ドキュメントや②見積書や請求書などこちらから捺印して送付するものに関しては電子印鑑で紙と「はんこ」をなくすことは十分可能ではないでしょうか?

 民間の契約はあくまでもお互いの意思表示により成立します。テレワークの障害となっているとの批判を受けて6月19日に内閣府、法務省、経済産業省は、民間企業などが取り交わす契約について、「契約書への押印は特別の決まりがない限り不要」とする見解を発表し「テレワークを推進するため、不要な押印は省略して別の手段で代替するのが有意義」との見方を示しました。文書の成立の真正を証明する手段を確保するための方法として下記を例示しています。
 1. 継続的な取引関係がある場合
 ・ 取引先とのメールのメールアドレス・本文及び日時等、送受信記録の保存(請求書、納品書、検収書、領収書、確認書等は、このような方法の保存のみでも、文書の成立の真正が認められる重要な一事情になり得ると考えられる。)
 2. 新規に取引関係に入る場合
 ・ 契約締結前段階での本人確認情報(氏名・住所等及びその根拠資料としての運転免許証など)の記録・保存
 ・ 本人確認情報の入手過程(郵送受付やメールでのPDF送付)の記録・保存
 ・ 文書や契約の成立過程(メールやSNS上のやり取り)の保存
 3. 電子署名や電子認証サービスの活用(利用時のログインID・日時や認証結果などを記録・保存できるサービスを含む。)

 さらに3の電子署名を使用しない場合であっても、文書の成立の真正が争われた場合その立証を容易にするものとして下記方法も例示しています。
 A) メールにより契約を締結することを事前に合意した場合の当該合意の保存
 B) PDFにパスワードを設定
 C) B)のPDFをメールで送付する際、パスワードを携帯電話等の別経路で伝達
 D) 複数者宛のメール送信(担当者に加え、法務担当部長や取締役等の決裁権者を宛先に含める等)
 E) PDFを含む送信メール及びその送受信記録の長期保存

 7月17日政府が発表したいわゆる「骨太の方針」の中でも行政のデジタル化が目標として掲げられ「書面・押印・対面を前提とした我が国の制度・慣行を見直し、実際に足を運ばなくても手続できるリモート社会の実現に向けて取り組む。このため、全ての行政手続を対象に見直しを行い、原則として書面・押印・対面を不要とし、デジタルで完結できるよう見直す。また、押印についての法的な考え方の整理などを通じて、民民間の商慣行等についても、官民一体となって改革を推進する。」ことが明記され、押印不要論の流れは政府の対応も含めて今後もますます加速すると思われます。

<脱はんこのメリット>
 脱はんこのメリットとして想定されることを列挙してみます。
 ・コスト削減:紙代、製本代、郵送料、印紙代、紙の保管代の削減につながる。
 特に印紙税を多く払っている企業にとっては電子契約による印紙税の削減は非常にメリットになります。
 ・工数削減:印刷、回議、製本、郵送にかかる工数削減
 ・期間短縮:それまで締結に数週間かかっていた契約が最短1日で完了する
 ・場所を選ばない:クラウドサービス利用により、在宅でも外出先でも承認できオフィスに出社する必要がなくなる。
 ・ガバナンス向上:紙がデジタル化されることで検索性があがり、いつ誰が何を承認したのかが見える化できる。
 ・さらなる改善のきっかけとなる。デジタル化されることで、例えば経費精算のデータを会計システムに連動させるなどデジタル化による改善のきっかけとなる。

<「はんこ」文化の脱却に向けて>
 電子署名、電子印鑑どちらもクラウドサービスが多く提供されています。
 サービスについてはそれぞれの企業の業務やコスト、その厳格性などで判断して選択していただければ良いと思いますが、捺印の電子化にあたっては、これをきっかけにして社内ルール、プロセスの見直しを合わせて実施することが最も重要だと考えます。
 例えば社内の経費精算における承認プロセスを考えてみます。
 筆者が知る事例では、出張旅費精算の承認に
  申請者→直属上司→所属部長→総務部長→経理担当→経理部長→社長
と6人の承認(捺印)を行っている例がありました。多くの人が承認プロセスに入ることは一見ガバナンスが担保されているように見えます。しかしながら誰が何を承認しているか責任の所在が不明確になりやすいと考えます。それぞれの承認者はほかの人が見てくれているから大丈夫という気持ちが働いてしまうのではないでしょうか?この機会に思い切って少人数の承認者に限定するようなワークフローの変更も考慮してみるいい機会になると思います。

<おわりに>
 緊急事態宣言は解除されとはいえ、連日新型コロナウイルス感染者の拡大は続いています。ワクチン等根本的な解決策が普及するまではウィズコロナの取り組みが必要になります。また地震・台風・水害など自然災害により出社ができなくなる事態も想定しなければなりません。そのような時のBCP(事業継続計画)対策としてこの機会に「はんこ」の電子化を検討・準備しておくことは有効なことではないでしょうか?今が変革のチャンスだと思います。

(参考文献)
・東京都「テレワーク実施率緊急調査」
https://www.bousai.metro.tokyo.lg.jp/taisaku/saigai/1007261/1007864.html
・東京商工会議所「テレワークの実施状況に関する緊急アンケート」
https://www.tokyo-cci.or.jp/page.jsp?id=1022366
・株式会社コンカー「緊急事態宣言中のテレワークに関する調査」
https://www.concur.co.jp/newsroom/article/pr-telework-survey
・日本CFO協会「新型コロナウイルスによる日本企業の経理財務業務への影響」
http://www.cfo.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/04/release_200406.pdf
・経済産業省「押印に関するQ&A」
https://www.meti.go.jp/covid-19/ouin_qa.html
・内閣府「経済財政運営と改革の基本方針2020」
・DocuSign社・CloudSign社HP

(プロフィール)
経済産業大臣登録 中小企業診断士
西原 寛人
一般社団法人東京都中小企業診断士協会 中央支部副支部長