大石 泰弘

「グローバル化」の壁を壊すヒント

「グローバル化」を支える「グローバル人材」という存在がいます。

文部科学省(以下、文科省と略称)の「産学連携によるグローバル人材育成推進会議」がまとめた報告書によると、「グローバル人材」とは、「世界的な競争と共生が進む現代社会において、日本人としてのアイデンティティを持ちながら、広い視野に立って培われる教養と専門性、異なる言語、文化、価値を乗り越えて関係を構築するためのコミュニケーション能力と協調性、新しい価値を創造する能力、次世代までも視野に入れた社会貢献の意識などを持った人間」(「産学官によるグローバル人材の育成のための戦略」、平成23年4月28日)と書かれています。

 

筆者は日本の「グローバル人材」には以下の2つのタイプがあると考えます。

①国籍に関係なく採用された、経営を担う人材

②海外で活躍する日本人

 

①は、たとえばカルロス・ゴーンさんに代表されるような世界を舞台に活躍する経営者です。

②は、日本本社の企業で、アメリカの子会社の経営を任せられる日本人、あるいはアメリカ子会社のアメリカ人の経営者の下で本社の意向を実行させるための日本人のことです。

 

筆者は、かつてアメリカ人の工場長の下でPlanning Directorとして5年間過ごし、②の体験をしました。その時はまさにグローバル化のさまざまな壁を壊そうと奮闘しました。今回はその時の苦労の内、家族にとっても壁である子女教育の体験についてのご紹介が「グローバル化」の壁を壊すヒントになればと思います。

 

日本人学校と日本語補習校

筆者は2005年から2010年の5年間、妻と子供2人の家族全員でカリフォルニア州の州都であるサクラメント市の近郊に駐在しました。下は男の子で小4の夏休みから中2の3月まで、上は女の子で中3の夏休みから高校卒業まで(最後の1年間は日本に1人で下宿して大学受験予備校に通学)でした。最寄りの日本人学校まで車で2時間かかるので、2人の子供を平日は現地校に、土曜日はサクラメント市にある補習校(以下、サクラメント補習校と略称)に通わせました。生徒数は当時120名くらいでした。筆者は1年間その理事長をしたり5年間その学校運営に関わったりした経験と、親として子供2人の教育で悩んだ体験談になります。

海外在住の日本人の小中学生の多くは日本人学校か日本語補習校(以下、補習校と略称)に通います。どちらも目的は共通で、日本企業から派遣されたグローバル人材が海外で存分に活躍できるよう、家族で海外生活を送り、日本に帰国したら子女が早期に日本の授業になじめるための教育を現地ですることです。両者が異なる点の一つは、学校を運営する際に必要な「①教室」「②先生」「③教科書」のうち、日本人学校は三つとも文科省が準備しますが、補習校では「③教科書」だけであり、「①教室」と「②先生」は保護者が用意しなければなりません。

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サクラメント補習校の沿革と運営

サクラメント補修校では、林ヶ谷校長先生の方針で日本より古式ゆかしいカリキュラムがありました。朝は全員でラジオ体操をします。卒業式では「君が代」「仰げば尊し」を歌います。全校で学芸会をし、毎年文集を発行しました。補習校にはめずらしく校歌もありました。日本より日本的な学校だったと思います。

サクラメント補習校の学校運営は駐在組と永住組の保護者の代表5名からなる理事会が担いました。生徒の大半は永住組でしたが、駐在員のための学校なので理事長は筆者が勤務していたNECの駐在員が歴代担当しました。駐在員はいつ帰任になるかもわからないし、保護者の奉仕で成り立っていることを保護者一人一人に認識してもらうために、理事の任期は1年で再任なしというルールでした。

 

 

 

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理事会の重要業務の1つは「①教室」の確保でした。サクラメント補習校の教室は創立以来カリフォルニア州立大学サクラメント校の校舎を賃借しました。ここを借り続けられたのは、補習校創設時から30年以上ずっと校長先生をされている林ヶ谷教授が、この大学で大きな功績を残してこられたからです。そもそもこの補習校はNECが1980年頃に半導体貿易摩擦対策のためにアメリカに工場を建設することになり、駐在員の家族の子女教育環境が必要と考え、林ヶ谷教授に校長先生を引き受けてもらってスタートしたのです。

 

 

 

 

理事会のもう1つの重要業務は「②先生」の確保です。教員資格を持っておられるお母さん方と校長先生で常に賄ってきました。いつも不足しそうなのに続くのはほとんど奇跡的です。日本のお母さんの多くは教員資格を持っておられるのでしょうか。どうして確保し続けられたのか筆者にはいまだにわかりません。

 

先ほど学校運営には3つが必要と言いましたが、「④生徒」「⑤資金」も必要です。

そもそも日本に帰国して日本の学校に短期間で馴染むためには、補習校にできるだけ多くの「④生徒」がいて、日本の社会性を体験しておくことが重要です。ですからアメリカに永住することが決まっている子供達でも、入学を希望し授業についてこられるお子さんは積極的に受け入れました。

また、「資金」の面では先生の謝金や教室の賃借料を確保するためにも、1クラス10人以上の生徒がいると安定しましたが、中学生や高校生は1学年に数名しかいませんでした。1クラス15人以上になると資金面ではとても楽なのですが、先生の負荷が高まり辞められることもありました。先生の数、質、教育の質、生徒の数、財務などいろんな要素の微妙なバランスで運営が成り立っていたのです。

 

筆者の理事長体験

筆者が1年間理事を務めた中での苦労話をご紹介します。

最も苦労したのは、「②先生」の確保と賃上げ問題でした。学期の途中で先生が他州に引っ越されることになり、新たな先生がみつからないために教員免許のない方に頼む寸前まで行きました。幸い口コミで教員免許保有の方が見つかり事なきを得ました。一方で既存の先生方からは賃上げ要求がありました。当時は長年溜めた資金がありましたが、生徒数が減るとあっという間に赤字になることがシミュレーションで分かったので、先生方の負荷の公平さの向上を納得していただき総額はほとんど変わらないような変更にしました。筆者の帰国後に駐在員数は大きく減ったので間違っていなかったと思います。

 

次に大変だったのは、保護者からのさまざまなクレームです。一番多かったのは、永住される親御さんからの「宿題の量やレベルを下げてくれ。」というものでした。公式な学校の目的は帰国子女の支援なので到底受け入れられませんが、生徒数も減らしたくないので、「一緒に日本の文化をもっと学んで伝えていきましょう。」というような苦肉の言い訳をしました。

 

また、日本人男性と国際結婚した外国人の母親で、とても子供のしつけに厳しい方へのクレームがありました。ご自身がとてもしつけの厳しい家庭に育ち、自分の子供はもちろん、よその家の子供にも同じように厳しく礼儀正しさを躾けしようと注意をされるので、他の親御さんからクレームをいただいたのです。どちらもいい子に育てたいという気持ちは一緒なので、両方に少しずつ我慢をお願いして折り合いをつけてもらいました。

 

写真3ホームページ

 

さらに、先生の募集、理事会の負荷軽減、保護者の協力を引き出す、などのために、長年の懸案だったホームページを開設しました。

http://www.sacramento-hosyuko.com/

 

その後毎年バージョンアップされていますが、絵具のデザインや学校紹介の写真や文章は当時のままなのでとても懐かしく思います。

 

 

 

 

 

 

 

子供達のストレス発散

子供達は、平日には現地校に通い、土曜日の午前中には補習校に通います。

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補習校は週に半日で日本と同じスピードで進むのでたくさん宿題がでます。現地校も平日には毎日宿題がでるので、補習校の宿題は週末か金曜日の夜にします。子供たちは1週間ずっと勉強に追いかけられます。

子供たちは最初の2~3年は現地校で自分の存在価値をアピールできず、フラストレーションを溜めます。補習校はそのはけ口の場にもなったので両方を続けられたのだと思います。

 

下の息子は現地校に入ってすぐにブラスバンド部にはいりトランペットを始めました。3年目にトランペットのリーダーになったことがストレスになり、大会の当日に出たくないと言い出したことがありました。その頃は友達との会話には支障がなく、いろいろ意地悪なことを言われているのがわかったようです。真面目な性格でちゃんと練習していたのが息子だけで、他の子供達から疎まれたのが理解できるようになりストレスを溜めていたのです。その日は必死になんとかおだてて参加させました。小4から中学校までブラスバンドの先生は同じ先生だったので夫婦で相談に行きました。とてもよく理解してくれていて良いアドバイスをしてくれました。間もなくリーダーを降りて少しずつ落ち着いていきました。4年目と5年目はハイスクールに上がり、ブラスバンドからマーチングバンドに変わったことがとても性格に合っていたようでクラブ活動に打ち込んでいました。

 

上の娘は思春期に入り、とてもナーバスな精神状態の中でストレスを溜めていたのだと思います。ある日パジャマのままで「学校に行かない」と言い出しました。筆者はそこを受け入れきれず、力づくで、車に乗せようとしましたが結局その日は学校に行きませんでした。

また、親の車で通学する途上、学校に行く時の筆者の車や下校時の妻の車に乗っていて、走行中にハンドルを動かし交通事故を起こしそうになったことが何度かありました。

また、年に数回は家族でトレッキングをしましたが、途中で歩かなくなることが起こるようになりました。観光に行って行方不明になりずっと家族が待たされたこともありました。思春期には日本にいても扱いづらいですが、どこに行くにも親の車に乗らざるを得ず、勝手に憂さ晴らしで外出することすらできない環境というのは本当に辛かっただろうなと今になって思います。しかし、その時は理解ができず厳しく接していました。少しずつ状況を飲み込めるようになり、あまり咎めなくするようにしましたが、その頃のことは家族全員思い出すのがつらい時期でした。ストレスを十分発散させてやれなかったと反省しています。

 

現在下の子(息子)は大学3年生です。高校ではテニス部にはいりましたが、大学では再びマーチングバンドにはいり毎週末熱心に活動しています。上の子(娘)は就職して英語を使わない仕事をしていますが、職場の人に誘われてトレッキングに時々行くようです。2人とも補習校や現地校の友人との交流は続いています。交流が続く友人が外国にできたことはかけがえのない価値だと思います。

 

体験から学ぶ「グローバル化」の壁を壊すヒント

共通支援とビジョンと個別事情への実践的対応

文科省は補習校の総ての生徒に教科書を無償貸与してくれました。教室の賃借料を下げるために保護者が清掃するなど自助努力をすると、文科省がその一部を援助してくれました。補習校に共通のこのような支援制度はとてもありがたいものでした。でもそれだけでは補習校の維持は無理でした。将来向かう姿(ビジョン)を意識しながら、その時の個別の状況に合わせて実践的な解決策をとっていかなければ存続できませんでした。共通支援とビジョンと個別事情に合わせた実践的行動の組み合わせがとても重要です。

 

当事者の会話の継続

上記のベースとなっているのは、文科省と企業と先生と保護者の前向きで協力的な会話の継続です。補習校のような制度は日本にしかない制度だと聞きますが、関係者の会話が継続できるからだと思います。

 

母国よりも強い伝統的風俗習慣への執着を理解

海外に出た人は知らず知らずのうちにストレスをすごく溜めています。ストレスが強い分、母国にいた時より強く伝統的な風俗習慣を大切に思うのではないでしょうか。

日本に来ている外国の駐在員やその家族が、自分たちの風俗習慣を強くアピールしても、それを敬遠するのではなく、興味を持って接することが大切だと思います。

 

中小企業診断士の心得

筆者は、国際化に限らず、診断士が経営の支援をする時も同じことを意識するべきだと考えています。つまり、共通の支援とビジョンと個別事情に応じた実践的支援をうまく組み合わせるべきだと思います。たとえば補助金は共通の支援ですが、その活かし方は企業の目指す姿と個別事情に合わせないと効果が全く変わると思います。また、外国から来られた方々と同じように経営者は夢と困難を併せ持ち、とてもストレスを溜めておられると心得、相手の話や気持ちについて好奇心を持って聴くことや、考え方の違いに寛容に接し、尊重する態度が重要だと思います。

 

 

■大石 泰弘(おおいし やすひろ)
1958年鳥取生まれ。NECの半導体部門で生産管理、事業計画、事業戦略に従事。その間、米国、香港、山形への駐在を経しながら人材育成や組織の活性化に取り組む。法政大学養成課程を2016年3月に卒業して診断士登録。修士論文のテーマは事業承継者候補となる中間管理職育成の研究。今後は人を大切にする経営も普及させたい。