Global Wind(グローバル・ウインド)

「学習時間は自分で捻出するもの」-82歳国際派診断士のチャレンジ-

中央支部「ビジネス英語研究会」 水野 隆張

1.総合商社の横浜支店で貿易業務の基本を叩きこまれた

私は1959年総合商社日綿実業株式会社(現在の双日株式会社)に入社し、最初の勤務先は横浜支店に配属された。当時の同社の横浜支店は国産の生糸、絹織物、絹製品などで全国一の実績を持つ発展著しい業績を誇る店だった。スタッフも有名大学出身のエリートぞろいで毎日が活気ある職場だった。先輩諸氏に毎日厳しい指導を受け厳しい仕事の毎日だった。支店勤務のため商社の基本的業務を分業ではなく、一からすべて覚えさせられた。この全てのプロセスを体で覚える体験は、やりがいがのある日々であり、その後の業務遂行に大いに参考になった。

最初のニューヨーク出張、初めてケネディー空港に降り立った時、『こんな大国と戦争して勝てるわけがない』と、改めて戦争の無謀さと無駄さ加減を実感した。その後アメリカとの間に貿易摩擦が深刻となり、更にはナイロンや化学繊維の出現が追い討ちをかけた事で、天然繊維の輸出は不振となり横浜支店は閉鎖されることになった。その後東京本社に転勤となり中国貿易部門に配属された。

 

2.1967年、中国が文化大革命で大混乱の最中にはじめて訪中

そして1967年初め、中国に出張させられた。当時の中国とは国交も回復しておらず、中国側が指定する友好貿易方式で、中国のお墨付きの国際貿易促進会が窓口となって、中国との貿易を仕切っていた。その当時の中国との取引は、春と秋に行われる広州での交易会が中心で、毎回200名ほどの商社・メーカーの取引社員が参加していた。中国社会は文化大革命で混乱の最中にあり、赤い本の『毛沢東語録』を持参して、『革命歌』を歌えなければ商談に参加させてもらえない程、厳しい毎日だった。

当時の日本経済は高度経済成長期だったが、まだまだ国内取引ルールが十分確立していなかった。輸出業務からいきなり輸入業務と国内販売を担当することになりに、毎日手探り、試行錯誤の連続であった。特に取引先の信用度を調査するのが一苦労で、当時は先輩諸氏からは「まずトイレを検査しろ。トイレの汚い会社は要注意だ」とか「女性が経理を預かっている会社には、注意が必要だ」など、現在の信用調査では首を傾げたくなるような『経験と勘』に基づくアドバイスを受けて、日々営業に励んでいたものだった。

1.『毛沢東語録』を持参して、『革命歌』を歌う

1.『毛沢東語録』を持参して、『革命歌』を歌う

 

3.診断士の資格の貴重さを思い知らされた

当時の私の得意先は、ほとんどが中小企業だった。人事部の勧めもあり、中小企業診断士の勉強を始めることにした。

当時の商社営業部は、外回りやお得意先の接待に追われる毎日で、勉強はさっぱり進まない状態だった。しかし、『窮すれば通ず』であり、月間営業ノルマを早めに達成すれば時間が余ることに気が付いた。月の前半に営業に特別集中して営業ノルマを達成させ、後半は得意先から会社に電話があっても「ただいま外出中ですので、別途折り返します」と営業秘書に答えてもらい、日比谷図書館で診断士の受験勉強に励んだものである。

一次試験には何とか合格したものの、二次試験は手こずり2度受けて何とか資格を取ることが出来た。当時社内では、営業以外の部門には診断士の有資格者がいたが営業では珍しく、上司からは一目置かれる存在となり、得意先からも注目されることとなった。得意先の電話を折り返したことは恐縮だったが、診断士の資格の貴重さを実感したものだった。

 

4.定年間近に大阪へ単身赴任、そして『日中韓経営管理学会』へ

その後、中国へは最低でも2か月に1回くらいのペースで出張を続け、社内でも『中国通』として注目を浴びるようになった。中国人の知り合いも年々増え、中国文化に接する機会も増え、中国に対する関心が年々深まっていった。

定年近くになり大阪へ転勤を命じられ、以後8年間の大阪単身赴任生活が始まった。そのころは若い世代も育って、管理職として日常業務もそれほど多忙ではなくなっていた。そこで上司と相談し、何千社とある得意先向けに最新経営情報を流すことになった。最初試験的に社内各部門に配信したが、何故かボロクソに批判されたため、負けず嫌いの性格も手伝って情報収集に一層の集中力を注いで取り組んだ。やっと社内の評価を得ることが出来、毎日A4三枚ぐらいに纏めた手書きの経営情報を、営業部が選んだ得意先宛にFAXで流す仕事に集中するようになった。結果は、殊のほか評判がよく、定年は60歳だが68歳まで経営情報提供の仕事を継続させてもらうことが出来た。

仕事には慣れて来たので数時間で業務が終わるため、残りの時間で『日中韓経営管理学会』の仕事に関わる事になった。半月でノルマを達成して、診断士勉強時間を捻出した教訓をここでも活かした。

この会は実践経営学会の下部組織として、アジア大学の横沢教授が上海市経済管理幹部学院と釜山の東儀大学と提携して始められたものである。現在私が所属する中央支部の「中国語研究会」中国語講師金鉄成氏が事務局長を務めていた。その関係から2005年上海で行われた第一回の『日中韓経営管理学術大会』に参加した。会場は上海市経済管理幹部学院の新築されたばかりの建物で行われ、基調講演の後日中韓の学者ビジネスマンが論文を発表し、盛会のうちに幕を閉じた。その後も中韓日の順序で持ち回りで学会が7回にわたり開催され、その都度継続して参加を続けた。

しかしながら、中国とは尖閣諸島問題が発生し、韓国とは慰安婦問題で政府間の外交関係がこじれ、2012年以降は開催が困難となってしまったのである。私が連絡幹事を担当し続けている「中国語研究会」も会員が中々集まらず細々と続けているのが現状である。

2.『日中韓経営管理学術大会2005』in上海に参加

2.『日中韓経営管理学術大会2005』in上海に参加

3. 2017年、亜細亜大学で開催された日中韓経営管理学術大会

3.2007年、亜細亜大学で開催された日中韓経営管理学術大会

 

5.国際派診断士のコミュニケーション手段としての語学の重要性

-82歳の手習いで、トーストマスターズクラブ入会-

近年、国際化の流れは益々加速され、中小企業の海外進出支援とインバウンド対応支援での国際派診断士への期待は益々高まっている。その流れと共に、コミュニケーションと異文化理解のスキルとしての外国語習得の重要性は高まるばかりであろう。

現在「中国語研究会」のほかに、『常識』としての英語勉強に磨きをかけるために「ビジス英語研究会」にも参加している。この会では、参加者に毎回5分間程度の英語スピーチが義務付けられており、毎回四苦八苦していた。そんな折、昨年11月定例会での「青山ランチトーストマスターズクラブ」会員の素晴らしいスピーチ内容とマナーに触発されて、『82歳の手習い』で、自宅近くのて「津田沼トーストマスターズクラブ」に早速入会して日々研鑽に努めているところである。

<トーストマスターズとは>

トーストマスターズインターナショナルは、1924年、カリフォルニアのサンタナにあるYMCAでスタートしている。非営利の教育団体として、①会員が聴衆の前で最大限に効果的に振る舞えるよう、そして②世界的なリーダーになれるよう、支援してきた伝統あるクラブである。今では126カ国、1万4650以上のクラブで、31万人以上がトーストマスターズインターナショナルのプログラムを実践し、楽しみながら①コミュニケーションと②リーダーシップのスキルを磨いている。

日本にも160以上のクラブがあり、インターネットで検索すれば、お住まいの近くに必ずトーストマスターズクラブが見つかるはずだ。

4.「青山ランチトーストマスターズクラブ」会員の素晴らしいスピーチ

4.「青山ランチトーストマスターズクラブ」会員の素晴らしいスピーチ

 5.「津田沼トーストマスターズクラブ」に82歳で入会

5.「津田沼トーストマスターズクラブ」に82歳で入会

 

水野 隆張(みずの たかはる)
総合商社で25年以上日中繊維貿易に従事。

05年(上海)06年(釜山)07年(亜細亜大学)で開催された日中韓経営管理学術大会及び08年日韓経済人会議(於:浦安)に参加。

82歳の現在も、中央支部「中国語研究会」、「ビジネス英語研究会」そして「津田沼トーストマスターズクラブ」で日々研鑽中の国際派中小企業診断士。